山鹿の温泉は平安時代の末に鹿がつかっているのを見て発見されたといわれ、その由来から山鹿と名づけられたといわれています。 豊富な湯量から「山鹿千軒たらいなし」とも呼ばれていたといいます。 江戸時代は「湯町」とも呼ばれ豊前街道(薩摩街道)の宿場町、また菊地川の河港として街道と水運が交差する交通上きわめて重要な位置を占め栄えてきました。 今でも、町には古い家並みが一部残っており、旧盆には「山鹿灯篭まつり」が行われます。
山鹿温泉についての詳しい情報は、山鹿温泉観光協会のホームページを参照してください。
以下は「山鹿灯篭まつり」のパンフレットより抜粋したものです。
□山鹿灯篭の歴史 山鹿灯篭は、室町時代の「金灯篭」に始まり、その後の長い歴史の中で次第に精緻なものへと進化しました。神殿造り、座敷造り、城造りなどと多様化していきますが、その作法には一貫した鉄則があります。 それは、
第一に、木や金具は一切使わず、和紙と少量の糊だけで作られること。
第二に、柱や障子の桟にいたるまで中が空洞であること。
第三に、独自のスケールで作られ、単なるミニチュアではないこと。
などです。これだけのことを予備知識として持っていれば、精緻な芸術品・山鹿灯篭の魅力は倍増するはずです。□すべての作品に見ることが出来る灯篭師の高度な技術 山鹿灯篭を語るとき、灯篭師抜きには語れません。山鹿では灯篭製作者のことを灯篭師と呼びます。この灯篭師には、高度な技術と熟練が要求され、 一人前になるには10数年の時間が必要です。
現在、灯篭まつりに奉納される灯篭は、約30基。灯篭師たちは4月の大宮神社での開始祭でおはらいを受けて身を清め、この日の灯篭まつりに向けて製作を続けてきました。
かって灯篭師は町内のダンナ筋といわれる富商に製作を依頼されて、手間を惜しまず精巧さを競いました。 そして磨きあがられた技術は師弟継承の秘技として、代々受け継がれてきたのです。 こうして数百年にわたる間、切磋琢磨・創意工夫が続けられ現在の「紙の芸術・山鹿灯篭」が完成したのです。□和紙と糊だけの芸術品 屋根、柱など数千点もの部品がひとつひとつ組み上げられ、次第に作品が完成します。 山鹿灯篭は山鹿灯篭まつりの間、市内約30ヶ所に展示され、8月16日の夜に「大宮神社」に「上がり灯篭」として奉納されます。「大宮神社」には奉納された灯篭が常時展示されています。
山鹿灯篭まつりは毎年旧盆の8月15日・16日に行われます。
山鹿灯篭まつりの見物はなんと言っても市内約30ヶ所に展示されている「奉納灯篭」と幻想的な雰囲気のなかで繰り広げられる「千人灯篭踊り」でしょう。 「千人灯篭踊り」は8月16日の夜に行われます。以下は「千人灯篭踊り」に関する西日本新聞の記事です。 「山鹿灯篭まつり」のクライマックスを飾る「千人灯篭おどり」が16日夜、熊本県山鹿市の山鹿小グラウンドであり、浴衣姿の女性たち約千人が、手すきの和紙とのりで作った灯篭を頭の上に乗せて踊った。 優雅に揺らぐ灯篭の輪に、集まった見物客が酔いしれた。 千人灯篭踊りはこの日午後9時にスタート。地元の保存会や婦人会などの女性たちが大きな輪をつくりながら「ヨヘホ」のかけ声に合わせて踊りはじめると、会場に詰めかけた人々は「ロマンチックできれい」とため息まじりに見入った。 祭りは、景行天皇が菊池川の深い霧で立ち往生したところに、地元の人々がたいまつを手に出迎えたという伝説に由来。この伝説を語り継ごう、と室町時代から和紙製の灯篭を街角に飾り始めた。戦後、女性たちの灯篭踊りが始ったという。 ここで1999年の山鹿灯篭まつりの主要な行事を紹介します。 □8月15日
・灯篭おどり(大宮神社境内/おまつり広場/温泉通り)
・山鹿太鼓
・花火大会(菊池側河畔) □8月16日
・灯篭おどり(市内全域/大宮神社境内/おまつり広場/温泉通り)
・千人灯篭踊り(山鹿小学校グランド):山鹿灯篭まつりのメインイベント!
・上がり灯篭(市内→大宮神社)
八千代座は明治43年に建てられた芝居小屋ですが、江戸時代の芝居小屋の姿を残した全国でも数少ない貴重な文化遺産です。ます席、桟敷などの客席構成や人力でまわす廻り舞台、花道、スッポンと呼ばれるセリなどの舞台構成は日本の伝統的な様式を伝えています。 国指定の重要文化財ですが、一時は老朽化して廃屋に近い見捨てられた無残な姿でしたが、老人会の瓦一枚運動により屋根瓦を修復し昔の姿を取り戻しました。 今では毎年「坂東玉三郎」の定期公演が行われ、九州内外のファンを集めています。また、いろいろな大衆演劇も開催されています。
ここは山鹿下町です。この道は豊前街道(薩摩街道)、江戸時代の参勤交代路です。 当時この道筋には大小の店が並び、行き交う旅人の目を奪いました。 町の出入口には構え口といって、ここに描いてあるような門があり、かたわらには「火の番屋」がおかれ明け六つ(午前6時)に門を明け、 暮六つ(午後6時)になると閉め以後は通行を許さず、番人が深夜の町を一刻ごとに「火の用心」、「火の用心」と呼びながら拍子木を叩いて廻って歩きました。 当時、この門を惣門と呼んでいて、今もこの地名が遺っています。 この写真は山鹿で有名な酒造ですが、この道を進んでいくと下町、中町、九日町、上町へと旧街道筋が続き、古い歴史を刻む情緒ある町並みを見ることができます。