長崎街道ポタポタ道中記2002
Puttering Date:2002/04/13
4月13日(土)はツーリングの相棒の馬場ちゃんと、
「伊能図で甦る古の夢.長崎街道」(河島悦子著)を参考にしながら、肥前山口から大村の近くまで、約100kmの旧街道を辿ってみました。旧街道は国道34号線、355号線とクロスしながら続いていましたが、一部は貯水池や田畑に変わったり、また階段や山道だったりして、いろいろな道を味会うことができました。
予定していた時間より大幅に遅れて、計画していた行程を走りきることはできませんでしたが、今年初めて、久々のツーリングは、階段や山道での押しや担ぎを交えた波乱?に満ちた旅となりました。
JR肥前山口駅まで輪行し、そこで待ち合わせた馬場ちゃんと一緒に「長崎街道ポタポタ道中」をスタート。
国道34号線の少し北側に続く田舎道をのんびりと走って、最初に目に付いたものは「横辺田代官所跡」。ここは、亨和元年(1801年)から明治9年(1876年)まで、15の郷を所轄する行政の中心地だったそうです。
ここから国道34号線にそって北方宿へと走ります。道は国道34号線に近づいたり、離れたりして続きます。
長崎街道・北方宿本陣跡です。古代には橘氏の居館があった所で、交通の要所だったそうです。
ここには街道往来のための宿泊や休憩のための本陣があり、前に脇本陣と多久藩の米蔵あったそうです。
長崎街道脇の旧跡にはきちんと案内板が設置されており、詳しく案内してくれます。
右隅に写っているのは、北方宿本陣跡を眺める馬場ちゃんです。
北方の追分石です。追分石と恵比寿さんをブロックで囲んで、自動車からガードしています。
追分石の文字は土に埋もれて一部しか読めませんが、「たけを」と「いまり」だそうです。
「たけを」方面へと走ります。長崎自動車道をくぐり、田んぼの中を通って着いたのが塚崎宿、現在の武雄温泉です。
左の写真は温泉の入り口に立つ朱塗りの楼門で、武雄温泉のシンボルとなっています。
ここが昔の本陣跡で、すぐ近くに脇本陣跡、代官所跡が集まっています。また、直角に曲がる道も江戸時代のなごりでした。
道路には小倉から長崎までの宿場の絵が描かれており、他のいろいろな旧跡とあわせて、長崎街道を大切にしてきた武雄の皆さんの気持ちが伝わってくるようでした。
JR佐世保線を自転車を担いでわたり、交通量の多い国道35号線を横切って「渕の尾浄水場」手前に「塔ノ原橋」という石橋があります。
石橋というと、つい眼鏡橋をイメージしてしまいますが、このような素朴なものもあるんですね。
渕の尾浄水場横から登り坂になりますが、旧街道は渕の尾水源池の底に沈んでいます。
渕の尾水源池横を走っていると、手作りの案内板が「渕の尾峠」へと誘ってくれました。「渕の尾峠」は「登り二丁計なり」と称される小さな峠です。
渕の尾峠を下って国道34号線にでます。ここからしばらくは旧街道跡と国道34号線が重なったり、旧街道跡が無くなったりしているので、国道34号線を走りました。
西九州自動車道、長崎自動車道をくぐると、道端に「小田志追分石」がひっそりと建っています。刻まれている文字は「こたしやま道」(小田志山道?)。
追分石のすぐ先で、長崎街道は国道34号線を離れますが、目印は「観光秘宝館」です。目立つ「観光秘宝館」の先の橋を渡って右折し、すぐ左折して続く家屋横の細い道が長崎街道跡です。
ちょっと見つけにくい、間違えやすいところですね。注意してください。
名も無い山道です。荒れた田舎道です。でも涼しい木陰が旅人を癒してくれます!。
峠を越えて、武雄・塩田道の追分を過ぎると、間もなく嬉野宿です。
嬉野宿の番号石です。
番号石は、江戸時代の嬉野の特異性を物語るもので、佐賀本藩と蓮池支藩との境界線上に約2千個の番号石(藩境石)が設置されていました。
番号石は、自然石や切り出した安山岩、砂岩に和数字を刻み込んだもので、石の大きさは平均して、高さ60〜80cm、幅30〜50cm、厚さ15〜30cmぐらいのものでした。
嬉野宿の西構口跡です。
「長崎街道 嬉野湯宿 西構口跡」と表示されています。
嬉野宿を過ぎるといよいよアップダウンが始まります。これまでは佐賀平野外れの比較的平坦な道が続いていました。旅人も草鞋の紐を結びなおして、険しい登り/下りに備えたのではないでしょうか。
国道34号線は比較的に緩やかな登りですが、長崎街道は細かなアップダウンの連続です。
俵坂関所跡と領境石(佐賀領)です。
幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼んだので、ここも正しい呼び方は「俵坂口留番所」です。ここに番所がおかれたのは戦国期頃と伝えられていますが、創設の時代は不明なようです。
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃止されました。
すぐ先で国道34号線にでます。
領境石(大村領)です。
俵坂を越えた左手の土手に建っています。「自是南大村領」という石碑の上部が欠けて、南の下部より下だけが残っています。
通行困難なルートは避けて国道34号線を走ります。大楠小学校の先で、再び長崎街道へと入り、田舎道を気持ち良く下っていきます。
彼杵川を渡ると彼杵宿跡に着きます。石碑には「元禄船着場跡」と書かれていました。
石碑の先の石造りの船着場が「元禄船着場跡」なのでしょう。
海岸沿いに走って、国道34号線に出て、千綿漁港近くで、再び長崎街道へと入ります。
千綿川岸に建つ「馬加瀬淵標石」です。
橋が架かっていなかったため、雨が続いて水かさが増えると、渡河も命がけだったようです。
「馬加瀬淵標石」の近くに建てられていました石碑しは、「龍頭泉道」と書かれていますが、何なんでしょう?。
このあと、長崎街道は入口が良くわからなくところが多くて、いくつかのパートが不通過となってしまいました。
「餅の浜踏切」から、再び長崎街道へとはいりました。
郡川に架かる福重橋を過ぎて、国道34号線に入ります。
大村市の桜馬場町交差点の先から、長崎街道へと入ります。
大村唯一の辻道標(追分石)です。
長崎街道の大村宿は、本町のアーケード通りに変わっていました。
大村の国立中央病院横まで長崎街道を走りましたが、喜々津の先輩との約束時間が迫ってきたので、この後は国道34号線をひたすら走ることになりました。
この続きは、別の機会に走ろうと考えています。