長崎街道・道中記2013(大里〜小倉)

Touring Date:2013/11/16


はじめに
JR小森江駅 JR鹿児島本線(右は小森江駅・駅舎)
豊前街道・門司往還 豊前大里宿マップ(門司麦酒煉瓦館の前の案内版)

今回は、長崎街道の未走破部分、大里(長崎街道の九州の玄関)から小倉まで写真撮影しながら、ゆっくりと走ってみました。距離は10km弱と短いですが、旧街道の面影を残している区間(大里本町〜JR門司駅前、長浜町〜JR小倉駅前)と、開発が進んでほとんど街道を思い起こさせるものが残っていない区間(JR門司駅前〜高浜)といろいろでした。

まずは、JR小森江駅からスタートです。

大里宿(大里本町〜JR門司駅前)
国道199号線から撮影した現在の大川 当時の大川の地形(クリックすると拡大)
左の写真が、現在の国道199号線、橋から撮影した大川です。海に向かって真っ直ぐ伸びています。この右岸に久留米藩の屋敷が建っていました。

右の写真は、JR門司駅の西口に建つ門司麦酒煉瓦館の前に建てられた案内版に記載された、当時の大川の様子です。砂州がもっと北の方まで伸び、砂州の先端に久留米藩の屋敷が建っています。八坂神社に建てられた大里宿場跡に関する案内板によると、久留米藩の屋敷は寛永年代、小倉藩から船入地として借りていたものだそうです。

国道199号線を、『大里宿湊口跡』がある大里第一船だまりへ向かいます。

大里宿湊口跡(大里第一船だまり) 大里本町1丁目交差点
大里宿湊口跡(大里第一船だまり)です。当時、ここは、対岸の下関(長門国赤間ケ関)へ渡る窓口であり、役所(御番所)も設置されていました。宿駅が設置された江戸中期以降は、九州の参勤大名の8割以上が、大里宿より渡海往来し、幕末まで大いに繁栄したそうです。

すぐ横の大里本町1丁目交差点の裏から入る細い通り(大里二丁目本町通り)が当時の長崎街・道門司往還・大里宿のメイン通りであり、道路の両脇には本陣や脇本陣、そして人馬中継所などが立ち並んでいたそうです。通りの右手(海岸側)には西生寺(さいしょうじ)がありますが、この(裏)通りは、意外と交通量があります。

通りのポイント、ポイントには、当時の建物の所在を示す石碑が立てられているので、地図と照合しながら、丁寧にチェックして行きます。

判行寺石碑跡 庄屋屋敷跡石碑 御番所跡石碑 本陣(お茶屋)跡石碑
それぞれに石碑(西生寺側から順番に掲載)に刻まれた言葉は、
  • 判行寺石碑跡(西生寺山門横に設置)
     寛永16年(1639)、徳川幕府による宗門改めの政策によりキリスト教は禁制となり、それに伴い踏絵が実施された。豊前国企救郡に於ける踏絵は、毎年3月3日頃、西生寺にて行われ幕末まで続いた。明治の初め頃まで此処に『判行寺』と刻した石碑が建てられていた。
  • 大里村庄屋石原宗祐屋敷跡石碑(大里本町1丁目8-16の敷地角
     江戸期凶作に苦しむ農民を救済のため私財を投じて門司小倉に新田門司六本松猿喰小倉曽根百十八町余を開作した郷土の誇りとする功労者である
  • 御番所跡石碑(大里本町2丁目3-12の山崎鉄工株式会社の敷地角
     この小路(御成小路)の海側に御番所があった。本土との渡海口に当たり、ここの在番役人は船の出入、人馬の切手改め、抜荷の取締りを行っていた
  • 本陣(お茶屋)跡石碑(大里本町2丁目2の八坂神社の鳥居の脚元、本陣は2丁目2-22周辺)本陣の地図
     江戸期、九州諸大名、長崎日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中休泊した小倉藩の施設があったところ

重松彦之丞屋敷跡 御高札・南郡屋跡石碑

大里本町1丁目から2丁目にかけての石碑は、あと2個、
  • 重松彦之丞屋敷跡(大里本町2丁目9-17の住宅の敷地角、重松家は脇本陣であった)
     伊能忠敬幕命により全国測量の途中、・・・本陣重松彦之丞に止宿家作よし・・・と文化7年正月12日の測量日記に記せり
  • 御高札・南郡屋跡石碑(大里本町2丁目8-16の古い屋敷の敷地角
     この地に御高札と南郡屋が建っていた。御高札は幕府友藩の通達を掲示した。隣接のと南郡屋は藩役人が各村庄屋へ通達と打合せを行ったところ
いろいろな石碑のほかに、いくつもの神社、仏閣が当時の姿を残しています。

大専寺 八坂神社 仏願寺と参道 格子戸の古い屋敷

県道71号線を横切って、大里本町3丁目に入ります。ここも意外と交通量が多いな〜。大里本町3丁目に設置された石碑に刻まれた言葉は、

人馬継所跡石碑 一里塚標石跡石碑 豊前大里宿跡石碑 長崎番所跡石碑
  • 人馬継所跡石碑跡石碑(大里本町3丁目2-21の民家の庭先
     人馬継所は宿場の主要設備であって継立の人馬を常備していた。旅人は料金を支払って人馬駕籠をたのみ次の宿まで旅行した
  • 一里塚標石跡石碑(大里本町3丁目2-16の民家の敷地角
     大里宿は江戸への玄関口であり長崎街道の始終着駅であった。藩政期要路には一里程の目安として一里塚標石を設けていた
  • 豊前大里宿跡石碑(大里本町3丁目3-12の協和硝子株式会社の敷地角
     大里宿は長崎街道に沿った直線5町52間(約646m)の町並みで、ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建並んでいた。西隣には長崎番所が設けられていた
  • 長崎番所跡石碑(大里本町3丁目11-1の赤煉瓦倶楽部の敷地角
     寛政11年(1799)幕府(長崎奉行所)は大里出張所をここに設置した。当時、玄界灘に出没した密貿易船の取締りと、対唐貿易の代物(俵物・諸式)を長崎に送る為、保管中継の基地として設置した


JR門司駅前〜小倉城下
JR門司駅前から高浜の間は、開発が進んでいたり、JR鹿児島本線の敷地内になったりして、旧街道の面影は残っていません。JR門司駅前から松原3丁目の『ゼンリンプリンテックス』の裏まではJR鹿児島本線に沿って道なりに走ることができますが、そこで行き止まりになりました。いったん戻って国道199号線を走り、赤坂海岸交差点の先から線路側に入ると、多分、このあたりが『秋月街道追分』で、この先も少しは知ると行き止まりになりました。再度、国道199号線を走り、長浜町から旧街道に戻りました。

岩松助左衛門翁生誕の家跡 閻魔堂 貴船神社

いよいよ、小倉城下へ入ります。

現在の門司口橋 門司口門跡の案内板(クリックで拡大) 門司口門付近図(クリックで拡大)

案内板によると、門司口橋の下流は、すぐに海岸だったようです。海岸には石垣が築かれていたようですが、砂州は無かったのでしょうか(地名は砂津だけどね))。門司口橋を渡って左折し、すぐに新船津橋交差点を右折して、京町の裏通りに入りました。この付近は昔の職場に近くて、よく通った場所です。このまま直進し、浅香通りを横切ると『セントシティ北九州』が正面に見えてきますが、旧街道は『セントシティ北九州』のど真ん中を突き抜けて、京町アーケードを通り、紫川に架かる木造の常盤橋に続いていました。

浅香通りから門司口橋方面を振り返る 小倉城の方角に『セントシティ北九州』が見える

浅香通りから旧街道を振り返ると、左手に『西願寺』が見えます。浅香通りから『セントシティ北九州』に向かう細い通りの路面には『参勤交代往還路』という銘盤が埋め込まれ、『セントシティ北九州』の手前の歩道には『参勤交代往還路の案内板』が設置されています。

『参勤交代往還路の案内板』には、
この正面に見える道は、江戸時代に九州の諸大名が、参勤交代で江戸と九州を往復した道である。
大名は紫川にかかる常盤橋(木の橋)を渡って、今の京町のアーケードを通りこの地点にくる。この道の突き当たりを左折して、小倉城郭の門司口門(今の門司口橋手前)をくぐり城外に出る。門は昼夜開門しており、門の横に番所があり、常時門番がいた。門司口から長浜、赤坂を通って大里に行く道は、万葉の昔から往来が盛んであった。高浜、長浜は万葉集にも出てくる「企救の高浜」「企救の長浜」で、風光明眉なところであった。特に、長い年月の間に風で砂がとばされて根が浮き出し、その下を歩いて通れるほどの見事な「根上がり松」があった。
長浜から先は、今では工場が立ち並び、埋め立てられ、途中線路で途切れている。松も一本も見ることはできない。常盤橋からのこの道が、昔の面影をわずかに残すものとなっている。小倉北区役所

京町アーケード
 京町アーケードを抜けると、紫川に架かる常盤橋が見えてきます。

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