これぞ北九州

北九州門司港レトロ小倉市街若戸大橋若松バンド平尾台

北九州(諸文化の源流・「福岡県の歴史散歩」より)
北九州は古代から遣唐船の寄港地であって、大陸文化と大和をつなぐ重要な役割を果たすとともに、国内では瀬戸内海を通じて畿内と結ぶ重要な要路であった。
しかも、九州の喉元に位置することから、歴代の地方の大勢力や中央の権力者によって、常に争奪の的となり、その結果、幾多の統治者の推移とともに、独自の文化をもつちかうこととなった。

北九州は源平の合戦には平氏の根拠地となり、鎌倉時代には下総親房(門司氏)、宇都宮信房(城井氏)らが地頭職となり、南北朝時代には城井・大内・菊地・新田諸氏の支配が交錯した。室町時代には遣明船の貨物集積地として大内氏繁栄の一翼をになった。 戦国時代にはこの地をめぐり大内氏、その滅亡後は毛利氏と大友氏、さらには島津氏の戦いが展開した。秀吉の九州平定後、豊前国は企救・田川2郡を毛利勝信が統治(居城小倉)し、その他の各郡を黒田孝高が統治(居城中津)した。
関ヶ原の戦いの後、黒田氏は筑前の国に、豊前国には細川忠興が入封した。その細川氏が転封後小笠原忠真が豊前6郡15万石を領し、以来幕末まで 10代230余年間継承した。

明治になり、政府の富国強兵策のなかで、小倉は軍都として、八幡・戸畑は官営八幡製鉄所を中心として北九州工業地帯を形成し、門司・若松は港都として発展した。

めかり公園〜門司港レトロ地区(めかり公園、門司港レトロ、巌流島、大里)

関門橋 関門海峡に面し、本州に最も近い所に和布刈(めかり)神社があります。社殿の前は瀬戸内西口の急流で、船の安全航行を祈念して祀られたものです。 和布刈(めかり)神社のすぐ先に関門トンネル人道口があります。

門司は九州の玄関口であり、古来から文字通り「関門」となってきました。大化の改新後には水陸両用の交通の要衝として「門司ケ関」(門司関跡の石碑は和布刈公園入口の 一の鳥居のきわにあります)が設置され、往来者の点検を行っていました。その後も貿易港として栄え、「バナナの叩き売り」の発祥の地としても有名です。

門司港駅は九州に鉄道が敷設された時の起点となり、構内の1番ホームには「0哩標識」の記念碑が設置されています。 また門司港駅を含めて明治の頃の建物が数多く保存されており、門司港レトロとして若者の観光スポットとなっています。
関門海峡沿いに南下していくと、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したという船島(巌流島)を望むことができます。

大里は古い地名を「柳の内裏」といい、源氏に都を追われた「安徳天皇」の最後の御所になったところだそうです。


和布刈(めかり)神社・「福岡県の歴史散歩」より

和布刈(めかり)神社 関門海峡に面し、本州に最も近い場所(関門橋の門司側橋げたの近く)に和布刈神社(祭神仲哀天皇・応神天皇・神巧皇后,阿曇磯良神など)があります。 社殿の前は瀬戸内海西口の急流(時速18km)で、つねに白波をたてて奔流する難所(早鞆の瀬戸)であることから、海峡を通過する船の航行安全を祈念して祀られたのが和布刈神社の起源といわれています。 社伝によれば神巧皇后の創建とされており、江戸期には藩主小笠原氏の崇拝をうけたと言われています。

この神社では毎年旧正月の元旦に「和布刈神事(県無形)」が行われます。奈良時代初期からの伝統行事で、謡曲「和布刈」にあるように、旧正月元旦の午前2時30分頃から、 狩衣・烏帽子・白足袋・ワラぞうり姿の3人の神官が社前の海で大松明を照らして新ワカメを刈り取り、神前にそなえ「企救郡神楽」を舞います。

新年を迎えるための予祝行事で、厳冬のなかで神秘的に行われています。


門司港駅

JR門司港駅 現在の門司港駅舎(国重文)は1914年(大正3)に完成した木造2階建ての本格的なフレンチ・ルネッサンス様式でできています。くすんだ緑色に、屋根はエメラルド・グリーンの銅板葺、正面中央に時計台と三角切妻、 その左右にはアーチ型の窓を持つ小屋根を配しています。鉄道駅舎としては、全国初の国の重要文化財です。

また、門司港駅は九州に鉄道が敷設された時の起点であったため、駅構内の1番ホームには「0哩標識」の記念碑が設置されています。


門司港レトロ

北九州市旧門司税関 北九州市旧門司税関

明治45年建築、煉瓦造り2階建て。港湾都市門司を象徴する、門司では数少ない明治時代の赤煉瓦造りの建物として、港の変遷を見つめてきました。 そして今、門司港レトロ散策を楽しむ人々の休憩・展望施設として生まれ変わりました。

1階にはエントランスホール、休憩室、展示室。2階がギャラリーと関門海峡や門司港の市街地を一望できる展望室となっています。 さらに、第一船溜まりに面した開放的なテラスから眺めるレトロの街並みも格別です。

すぐ近くに「国際友好記念図書館」、「観光物産館・港ハウス」があります。

北九州市旧大阪商船 北九州市旧大阪商船

大正6年建築.洋風2階建。煉瓦のようにみえるオレンジ色のタイルと白い石状の帯が外観を覆い、中央部に八角形をした塔屋が印象的に配置され、当時は大陸航路の待合室として賑わっていました。

現在は門司港レトロの「海事・イベント館」として、1階は多目的に使用できる海峡ロマンホール、2階は「海」「港」「船」をテーマとした海事資料館になっています。

すぐ近くに「旧門司三井倶楽部」、「海峡プラザ」等があります。


小倉市街(常盤橋,小倉城,松本清張記念館,etc)

小倉城

紫川に架かる木の橋「常盤橋」から小倉の旅を始めます。常盤橋を渡って川沿いに進むと小倉城です。現在の天守閣は昭和34年に鉄筋コンクリートで復元されたものですが、 最初の築城時に外人宣教師の土木技術が用いられたことから、南蛮造とも呼ばれています。お城の裏には「松本清張 記念館」があります。 道を挟んで市立歴史博物館(屋根がカマボコ型で緑青色のユニークな建物です)がありますが、ここは北九州の古代から近代までの歩みを、歴史・民族部門から見せてくれます。

また、小倉には江戸時代の剣豪達の碑や墓が残っています。宮本武蔵と佐々木小次郎の碑は巌流島を眼下に望む手無山公園の頂上に並んで建っており、十文字槍の高田又兵衛と方円流の直方円斎の墓はJR小倉駅近くの生住寺にあります。

小倉で忘れてならないのは、JR小倉駅前の「祇園太鼓銅像」です。毎年7月の旧盆には小倉名物「祇園太鼓」があり、小倉城内で祇園太鼓の競演があります。 7月に入ると街中では祇園太鼓の練習が始り、太鼓の音が小倉っ子の血を騒がし始めます。


若戸大橋(自転車は通れませんが渡船があります)

若戸大橋と若戸渡船

若松と戸畑を結ぶ「若戸大橋」は北九州の海岸線を走る時は避けられないルートですが、自動車専用道路のため歩行者/自転車は通ることが出来ません。でも、橋の下には「若戸渡船」という渡し船があり、自転車も乗せてくれます。

所要時間は3分で便数も多く料金も安い(片道大人100円、自転車を含めても150円)ですよ。

若松渡船は若松地域の人々の生活の足として重宝されています。


若松バンド(大正ロマン漂う若松南海岸ストリート)

旧ごんぞう小屋

若松南海岸通りの大正期の建物群を中心とした近代港湾都市固有の帯状の都市空間で、石炭景気に沸いた若松の歴史と発展を伝えるとともに,景観的にも非常に優れた地域です。

バンドのオリジナルな景観を残す港湾都市は港湾機能を失った都市を除くと、日本ではここ若松だけといわれています。

ここには大正時代に建築された、旧古川鑛業ビル旧三菱合資若松支店ビル等を始めとして、いくつものロマン溢れるビル群が残っていますので、潮風に吹かれて大正ロマン漂う若松南海岸通りをポタリングしてみませんか!。


旧古川鑛業ビル

旧古川鑛業ビル

旧古川鑛業ビルは、大正8年の建築といわれ、れんが造二階建の建物は前・横の前面道路の交差角度に合わせて隅が鋭角で、そのコーナーに殆ど円形に近い三階部分まですらりと伸びた、縦線を強調した塔が配置された造りは、堂々とした風格が感じられます。
建物の平面は造形の四角形で、海岸通り側ともう一方の道路側の各立面の中央部に玄関を持っています。

デザインはレンガの柱型とその間の三連の窓を抱き込む石の部分が垂直線を強調し、全体の形を作っています。細部もルネサンス様式を基調にし、玄関の庇部、塔屋の入口上部にはこの傾向が強いが、その他の装飾は単純な幾何学的模様を基調としています。

また、ワンポイント的に扱った塔屋の明かり取り窓もこの建物の特徴です。現在、若松に残された近代建築の中では最も華やかな外観を持ち,当時の勇姿をうかがうことができます。


上野ビル(旧三菱合資若松支店ビル)

旧三菱合資若松支店ビル

三菱合資若松支店として大正2年建設。

現在は玄関部の増築と最上階部の改造が行われ左右対象な形をしているが、当時は兜型の庇がついた玄関で、正面右側の塔屋がアクセントを付けていた。

また、柱型の上端がアーチ状に伸び、その間には手摺があった。材料はドイツから輸入されたレンガを使用したといわている。


平尾台では地表に露出した石灰岩が、まるで羊が遊んでいるように見えます

平尾台

小倉の南方約20kmにあり、南北7km、東西2km、最高標高約400mの石灰岩台地で、地表に露出した石灰岩が羊の大群のように見えるといいます。

小倉市街からは都市モノレールに沿って国道322号線を走り、「小倉南IC」を過ぎた「平尾台入口」交差点を左折して、県道28号線に入ります。

次第に登りがきつくなりますが、「吹上峠」までが頑張り所です。


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