唐津街道・道中記

木屋瀬宿〜猿田峠〜赤間宿〜畦町宿青柳宿〜香椎宮〜箱崎八幡宮筥崎八幡宿〜博多〜福岡姪浜宿〜今宿〜前原宿深江宿〜浜崎宿〜唐津お勧めの本

はじめに
長崎街道の小倉を起点として二つ目の宿場「木屋瀬宿」から西へ折れて赤間に出て、国道3号線の内側を畦町〜青柳〜箱崎〜博多と通って福岡に出るのが内宿通り、唐津街道とも呼ばれたのは福岡藩主と唐津藩主だけの参勤交代路だったからだそうです。
唐津に至るには更に海岸沿いを西へと進みます. 唐津街道とよばれるのは、このほかにもいくつかのルートがありますが(例えば、北九州の若松から芦屋を経て赤間へ至るルート等)、代表的なものとしてこのルートを選びました。

畦町までは、猿田峠を始めとして小さな峠もいくつかありますが、その後は海岸通りが多く、平坦な道が続きますので、気楽にツーリングを楽しんでください。

また、北九州から唐津まで、ずっと海岸線が続いているため、古代から大陸との交流も多く、たくさんの遺跡が散在していることでも有名です。遺跡見物等をツーリングと組み合わせて、楽しみの幅を広げることも可能です。
木屋瀬の西構口

木屋瀬宿〜猿田峠〜赤間宿〜畦町宿
木屋瀬宿を出て遠賀川に架かる中島橋を渡って上流に進み、天神橋入口の植木交差点を右折して県道29号線に入ります。県道29号線はいくつか池の横を過ぎ、新幹線、高速道路をくぐって次第に登り坂となり、永田天満宮の前を過ぎると間もなく猿田峠(標高77m)です。

猿田峠を道なりに下り、国道3号線をくぐって直進すると、JR教育大前駅手前が「赤間宿」跡です。「赤間上町交差点」には赤間宿の案内板が建てられていますので、参考にして散策して下さい。「赤間上町交差点」を左折すると、道の両脇に古い街並みが大切に保存されています。
「赤間宿」の出口には「構口跡」というバス停がありますが、構口跡を示すものは何も残っていません。 「構口跡」バス停を過ぎ、短い上り下りのあと、県道503号線は野坂交差点で国道3号線を横切り、「原町」方面に入っていきます。

「原町」にも所々に「唐津街道・原町」という表示がありますが、古い街並みを偲ばせるものはほとんどありません。原町を過ぎると次第に登り坂となります。畦町宿までの間に小さな峠(山の口峠)がありますが、峠を下ると「月ケ池」手前の右側に「太閤水(1)」があります。

「月ケ池」の先から左手の細い道に入り、県道530号線を横切って「西郷川」にかかる「畦町」を渡ると「畦町宿」に着きます。畦町宿は宿泊のための宿場ではなく、昼飯や休憩のための場所だったそうですが、今でも古い家がいくつも残っています。 県道503号線を走り、次の「青柳宿」跡を目指します。
畦町宿跡の街並み

青柳宿〜香椎宮〜筥崎八幡宮
「内殿(うちどの)」交差点を左折すると次第に登り坂となります。福間町と古賀市の境あたりが最高地点ですが、そこに「旦ノ原の井戸」跡があります。 県道35号線ぶつかって左折し、古賀インター入口交差点を過ぎた交番の先を右折して県道504号線に入り「青柳四角」を過ぎると、「青柳町構口跡」バス停があります。 バス停の両脇に構口跡と案内板が残っていますが、「青柳宿」も昼飯や休憩のための宿場だったそうです。また、バス停のすぐ手前には「大宰府神社道」の道標があり、ここからも大宰府への道があったことを示しています。
「青柳宿」跡を過ぎ、そのまま県道504号線で「香椎宮」を目指します。

県道504号線を進むと、途中の左手にも「太閤水」という井戸があります。原上交差点で国道3号線と合流し、そのまましばらく走ると、下原交差点で左方面へ直進し、再度県道504号線に入ります。
そのまま街中のくねくねした道を走りJR香椎駅を過ぎると、まもなく左手に「香椎宮」へ続く参道があります。

福岡から旅立つ人は箱崎宮や香椎宮へ参拝し、道中の安全を祈ったそうです。時間があれば、古き時代に想いをはせて、参拝してみるのも良いかと思います。

県道504号線を進むと、途中から道が広くなり国道3号線(博多バイパス)となります。次の目標は「筥崎八幡宮」です。
国道3号線(博多バイパス)を進み、多々良川を渡る手前の真州崎橋北交差点を右折し、松崎橋を渡ります。高速道路をくぐって、しばらく道なりに進んだ後、 「休也橋」、すぐに右折して「塔の本橋」を渡り、JR鹿児島本線踏み切りを横切って九州大学の煉瓦塀に沿って左折します。しばらく箱崎商店街を進むと左手に「筥崎八幡宮」が見えてきます。

「筥崎八幡宮」は日本3大八幡宮のひとつであり、9月12日〜18日の「放生会(ほうじょうえ)」では、大変な賑わいとなります。
また、明治の頃までは、多々良川河口から博多まで海岸沿いに、ず〜っと松原(箱崎松原、千代の松原)が広がっていたそうです。松原の中の道を旅する人々の姿が目に浮かぶようです。
名島城跡の帆柱石

筥崎八幡宿〜博多〜福岡
箱崎八幡宮あたりが箱崎宿です。ここは福岡を旅立つ人が見送りの人と別れを惜しむ場所であり、また大名の江戸参勤の時はお城(福岡城)からこの箱崎までを美々しい第一装の、いわゆる大名行列で練り歩き、ここから旅の軽装に着替えて先を急いだそうです。 逆に長い旅を終えて箱崎宿まで辿り着いた旅人は、旅の無事を感謝してお祈りしたことでしょう。

現在、箱崎宿の道筋は商店街になっていますが、九州大学や東公園等、非常に緑が多い地区でもあります。東公園には元寇にちなむ資料館や亀山上皇、日蓮上人の銅像もあり、休憩の好ポイントです。
また、近くの崇福寺は福岡藩主であった黒田家の菩提寺であり、境内には福岡城本丸表門の遺構の山門、月見櫓・花見櫓を移した仏殿、名島城遺構という唐門が残っています。

道なりに進むと「石堂橋」の手前左に「濡衣塚」がありますが、なんとなく怖い気がします。石堂橋を渡ると、いよいよ博多の町です。江戸時代の道は石堂橋を渡って、ほぼ真っ直ぐに中洲へ向かっていたそうですが、戦時中に街並みが焼けた後に整備されたため、 大きな道路もでき、真っ直ぐには進めなくなっています。適宜、昭和通りにルートを変えてください。
崇福寺山門
ここで、博多と福岡について一言。博多は古い時代より貿易の窓口として栄えましたが、中世には堺とならぶ自由都市として、豪商の協議によって都市の運営を行うまでに発展しました。
その気風は博多商人の意地として、今も受け継がれていると言われています。また、福岡は安土桃山時代に福岡城が築かれてできた町で、那珂川を挟んで商人の町・博多と区分される(意地をはりあう)ようになったそうです。

江戸時代の福岡と博多を結んでいたのが、昭和通りに架かっている中島橋です。東中島橋と西中島橋がありますが、西中島橋のたもとには赤い煉瓦造りの「福岡市立歴史資料館」があります。福岡/博多の歴史に興味のある方?は是非立ち寄ってみて下さい。

西中島橋を過ぎて天神橋口交差点(この周辺が福岡最大の繁華街です)を直進すると、まもなく左手に福岡城(舞鶴城)跡が見えてきます。 大手門交差点を左折すると、そこには大手門、潮見櫓が残っており、すぐ隣には福岡城のお堀であった大濠公園があります。ここも休憩の好ポイントです。
道路をはさんで大濠公園の反対側には西公園があり、高台から博多湾や福岡ドーム球場等を眺められる好ポイントです。

大濠公園を過ぎて、次の姪浜(めいのはま)宿を目指します。
福岡城跡・潮見櫓

姪浜宿〜今宿〜前原宿
室見橋(室見川)を渡って、愛宕神社の下から続く裏道が旧道で、愛宕神社の下から「姪浜宿」が始まったそうです。裏道の道路脇に続く寺院や所々に見かける古い家並みが「姪浜宿」の名残なのでしょうか・・。 裏道はすぐに大きな道路と一緒になり、名柄川、十郎川を渡って次の今宿へと続きます。

十郎川を渡ると「生の松原」ですが、この一帯には「生の松原元寇防塁跡」が残っています。「九大宿舎前」バス停から入った宿舎裏には発掘整備された防塁が約60mほど保存されています。

「元寇防塁」は元寇の2度目の襲来に備えて、鎌倉幕府が西国御家人に命じて石築地を築かせたもので、福岡市東区の香椎浜から西区今津に至る博多湾沿岸の約20kmに及んでいます。

「生の松原」を過ぎると右手に海が見え、沖には「能古島(のこのしま)」を望むことができます。気持ちがふっと楽になる瞬間です。
生の松原元寇防塁跡
しばらく海を右に見て走ると今宿に着きます。今宿浜の松林を背にした宿場で、藩の米蔵がある横浜(今津)との追分でもあり、結構賑わっていたようです。
今宿をすぎて右折すると今津へ向かうルート(玄海サイクリングロード)ですが、「今津長浜元寇防塁」は「元寇防塁」のなかでも最も残存状態が良いと言われており、史跡広場の西約200mの所は約100mが完全に発掘されて、昔のままの姿を見学することができます。 「今津長浜元寇防塁」へは、今津橋を渡り緑町バス停の手前を右折してすぐです。時間があれば訪ねてみてください。

今宿を直進すると、すぐに「周船寺(しゅせんじ)」に着きます。周船寺は古くは「主船司」といい、大宰府の船舶を管理する役所が置かれていたそうです。 また、国道202号線沿いには古墳を始めとして、数多くの遺跡が残されています。古代に興味のある方にとっては、走り甲斐がある場所だと思います。

国道202号線を進むと、間もなく「前原宿」に到着します。「伊都文化会館前交差点」で国道202号線から外れた前原名店街が「前原宿」の中心でした。 江戸時代初期から宿場町として栄え、黒田藩の関所や代官所も置かれており。名店街の中にあるミニ公園は人馬継所跡を整備したものだそうです。
前原でも「唐津街道」をキーワードとした町おこしが行われており、毎年4月には「前原宿かごかき合戦」が賑やかに催されます。
丸太池の横をすぎると国道202号線に戻ります。
今津長浜元寇防塁跡

深江宿〜浜崎宿〜唐津
「前原宿」を出て、加布里(かふり)、二丈を過ぎると「深江宿」です。「深江宿」には昔を偲ばせるものは残っていません。
ここからは、しばらく海岸沿いを走りますが、道幅も狭いのでゆっくりと海を見物しながらという訳にはいかないようです。
玉島川を渡ると、そこはもう「浜崎宿」です。「浜崎宿」も松原に囲まれた宿場だったようです。
「浜崎宿」を過ぎると、「虹の松原」の間を抜けて走ることになります。約8kmにわたって松原が続くことから「ニ里の松原」と呼ばれていたものが、 いつのまにかロマンチックな「虹の松原」に変わったものだそうです。海岸に出て海を見ながら休憩できる好ポイントです。

「虹の松原」を抜けると前方に「唐津城」、またの名を舞鶴城(福岡城と一緒!)が見えてきます。「唐津城」をバックに記念撮影し「唐津街道」のゴール!\(^o^)/。 お疲れ様でした。
唐津市内には「武家屋敷」や「唐津神社」、また唐津くんちの「曳山展示場」等、多くの見所があります。うまく計画を立てて、ゆっくりと楽しんでください。

赤間宿「赤間上町交差点(JR教育大前駅横)に建てられた案内板より」
旧宿場町として栄えた赤間宿は、筑前21宿のうちの一つで、豊前小倉から若松、芦屋、赤間をたどり、博多、福岡から唐津へと向かう「唐津街道」に属した宿場(宿駅)です。この赤間には、長崎街道の木屋瀬宿から分かれてくる道もあります。 赤間は今は宗像市東部の大字名にすぎませんが、江戸時代から明治期の鉄道開通前までは宿場町として、宗像地方の物資の集積地として発展した所です。江戸期の資料に「・・…町家二百軒ばかり、茶屋宿屋あり・・…」などとも記されています。

この宿場の出入口には構口(かまえぐち)が置かれて通行がチェックされていました。その出入口の間は三百間(約550m)で、その中に公的施設や役人屋敷、商家が並んでいました。宿場内は5地区に分かれ、その名は通筋、上の番、上中ノ番、下ノ番、下中ノ番があります。 公的施設としては、藩主や長崎奉行、諸大名などが休泊する御茶屋(本陣)、家臣たちの町茶屋(脇本陣)、問屋場=荷物輸送業務の役人事務所、郡屋=郡奉行や村役人の詰所、番所、制札所=高札を掲げる所などがあり、役人たちの御茶屋奉行屋敷、下代屋敷なども置かれていました。

太閤水(1)「太閤水の案内板より」
天正15(1587)年3月、九州征伐の軍勢をおこした太閤秀吉は、島津義久降伏後帰途につき、肥後〜筑後を経て筑前大宰府に入り、同年6月7日箱崎に到着した。 箱崎滞陣中、九州の国割りや博多の町割りを行い、再三度の茶会を催し、連歌などを興行して7月1日朝、箱崎を出発した。

途中青柳(古賀町)辺りで昼食後、おりからの猛暑の中を宗像(城山)を目指して軍勢を進め、ここ山の口峠にさしかかった際、あまりの暑さに水を求めた。
秀吉は、ここの清冽な涌水を汲ませて喉をうるおし大変喜んだと伝えられている。

以来この清水を里人は「太閤水」と呼び、街道を行き交う人びとの飲料水となった。

旦ノ原の井戸「旦ノ原の井戸の案内板より」
旦ノ原は糟屋・宗像ニ郡の境で、筵内・薦野・内殿・上西郷の四ケ村にまたがる丘陵一帯のことをいいます。
江戸時代は、ここを通る道を唐津街道といって参勤交代の要路でありましたが、丘陵にあるため水がなくて困りました。

この実情を当地に住んでいた伊藤忠平氏が、大庄屋の石松林平氏に訴えて、井戸を掘ることを御願いしたところ許され、 伊藤忠平氏の屋敷に文久2年(1862年)の秋、井戸を掘り始め翌3年の秋できあがりました。

以来住民にも旅客にも便利になり、この井戸は「2郡4ケ村井戸ひとつ」と呼ばれるようになりました。
旦ノ原の井戸

青柳宿「青柳宿の案内板より」
青柳宿は、唐津街道の福岡藩に属する11宿の1宿で、福岡と赤間の中間にあり、いわゆる内宿通りの要衝であった。
御茶屋(御別館)や上・下の町茶屋のほか、宿屋や商家などが幹を連らね、福岡藩・唐津藩、後には薩摩藩も参勤交代の休泊地とした。

往来の旅客の休息、宿泊するものも数多く、問屋場では荷物の運搬に要する人馬の継立てをするなど、当地方の交通・経済の中心地であった。

問屋場の裏の夫小屋は最近まで残っていた。また、西の構え口の一部は今も保存されている。
青柳宿・西構口跡

太閤水(2)「太閤水の案内板より」
天正15(1587)年関白豊臣秀吉が、当時、九州の大部分を征服していた島津義久に対抗し、ただ独り立花の孤城を死守し続けた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けて、3月自ら軍を進め、遂に島津氏を降し九州を平定しました。

その帰途6月24日、ここで馬を休め自ら清い水を汲んで飲んだ所です。往路この地で水を求めたとき良い水がなかったので、同行していた堺の茶人「津田宗友」が、この崖下に掘り当てた湧き水です。 秀吉は、このことを聞くと即座に「宗友水」と名付けましたが、寛永5年(1626年)京都大徳寺の僧「江月宗玩」(宗友の子)が立ち寄った際「飯銅水」と改めさせ、後の人が石畳の井戸を造り太閤秀吉にちなんで「太閤水」と呼ぶようになりました。
太閤水の井戸

お勧めの本「唐津街道」
筑紫野市の河島悦子さんが、唐津街道を紹介するマップ本「唐津街道」を自費出版されました。河島さんは平成9年に「長崎街道」を出版されていますが、 今回の唐津街道は長崎街道ほど有名ではないため、自費出版になったとのことです。

申し込みは河島さん宅(092-928-1863)で、B5版、147頁で2,300円(送料込み)です。興味ある方は、是非申込んで下さい。


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