新唐津街道・道中記

(博多〜赤間〜芦屋〜若松〜戸畑〜小倉〜大里)
博多宿〜箱崎宿香椎宮〜青柳青柳宿〜畦町畦町宿〜原町宿赤間宿〜城山峠海老津〜芦屋宿山鹿〜若松宿戸畑〜小倉小倉〜大里|お勧めの本

 はじめに

唐津街道は江戸時代に筑前藩(福岡藩)と唐津藩が参勤交代に使っていたので、唐津街道と呼ばれていました。唐津街道は唐津を起点とした場合、浜崎宿、深江宿、前原宿、今宿宿、姪浜宿を経て、福岡宿、博多宿へ入ります。博多宿を出ると箱崎宿、青柳宿、畦町宿、赤間宿、芦屋宿を経て若松宿へと続きます。洞海湾を渡り戸畑へ上陸した街道は小倉城下を経て門司の大里から関門海峡を渡っていました。

赤間宿から長崎街道の木屋瀬宿へ出るルートは内宿通りや青柳通りとも呼ばれました。また、内宿通りでは木屋瀬宿(直方)の手前の六反田から鞍手町の底井野を経て黒崎宿にショートカットする底井野往還も使われていたようです。

文政の頃から薩摩藩や熊本藩、そして久留米の有馬藩が参勤交代路として、筑前六宿(本宿通)を避け、二日市宿や博多宿、青柳宿から木屋瀬宿を経由する、いわゆる内宿通りを利用するようになり、往来の数が増えたそうです(薩摩藩ではこのルートを赤間道を称していたそうです)。 冷水峠を越える本宿通(ほんじゅくどおり)の険しさをさけ、比較的に平坦な内宿通りを選んだのかもしれませんね。

江戸時代、筑前藩(福岡藩)と小笠原藩(小倉藩)の国境は、北九州市戸畑区の境川、そして金毘羅池の南側は板櫃川で、現在の北九州市のエリアとは大きく異なっています。現在の北九州市小倉区以東のエリアが小倉藩だったと考えて良いようです。

海岸通りには城山峠や山田峠、そして内宿通りには猿田峠を始めとして小さな峠もいくつかありますが、その後は海岸通りが多く平坦な道が続きます。一部には未舗装の山道等、旧街道を十分に堪能できるところもありますので、十分に楽しめるルートだと思います。また、北九州から唐津まで、ずっと海岸線が続いているため、古代から大陸との交流も多く、たくさんの遺跡が散在していることでも有名です。遺跡見物等をツーリングと組み合わせて、楽しみの幅を広げることも可能ですよ。

街道探訪にあたっては、筑紫野市在住の河島悦子さんが出版された、唐津街道を紹介するマップ本「唐津街道」を参考にしています。興味のある方は是非入手してください。


 博多宿〜箱崎宿

明治時代の初期まで、博多の街は東西の川(現在の御笠川と博多川)と南側の掘(房州掘等)に囲まれた水郷都市でした。

御笠川(その頃は石堂川と呼んでいたようです)に架かる石堂橋を東側の出入口として、博多川までの筋(通り)が博多宿でした。博多宿は筑前27宿のなかに数えられているように、宿場としての機能をもっていましたが、御茶屋はなく、町茶屋(博多三商傑の大賀屋敷で現在の呉服町ビジネスセンタービル付近)がそれに相当していたようです。太平洋戦争の空襲で宿場跡は全焼し、宿場跡の痕跡は消えてしまいましたが、町名や筋名には今も名を残しています(石堂橋からみた博多宿の通り。石堂橋を渡って博多へ入る最初の町は官内町で、博多六町筋のひとつ石堂流です)。

福岡城下町・博多・近隣古図(1812年)によると、博多宿の東側の出入口である石堂橋を渡ると松原(千代の松原)の中に二つの道がありました。石堂橋の東たもとの千代三丁目交差点で追分けて(千代の追分)箱崎へ行く筥崎道と、妙見を経て郡境の金出村(現在の篠栗町金出か?)に通じる金出道で、金出道は篠栗道へと続いています(石堂橋からみた筥崎道)。 箱崎へ行く筥崎道が唐津街道で九州大学病院前から筥崎八幡宮へと続いています。石堂橋の東のたもと近くには「濡衣塚」があります。

まず左側に見えてくるのが「崇福寺」です。「崇福寺」は福岡藩主であった黒田家の墓所のひとつで、藩祖黒田如水、初代藩主長政、4代綱政、6代継高、7代治之、9代斉隆の墓所だそうです。名島城の遺構で福岡城構築のさいに移築したとされる唐門福岡城の本丸表御門であり大正時代に移築された山門、そして仏殿や黒田家代々の墓等があります。

九州大学病院の前身の県立病院が移転してきたのが明治29年で、それまではず〜っと松原が続いていたようです。馬出(まいだし)の商店街過ぎると、箱崎(筥崎)宮の手前左側(佐賀銀行箱崎支店)の向かい側・レストラン天井××の角「粕屋の表粕屋郡境石」(「従是東表粕屋郡」と彫られている)が建っています。

郡境石の斜め前には「筥崎宮(筥崎八幡宮)」があります。筥崎宮の御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。筥崎宮(筥崎八幡宮)は1月の玉取祭(玉せせり)や9月の放生会でも有名で、毎年たくさんの見物客が訪れます。福岡から旅立つ人は筥崎宮や香椎宮へ参拝し、道中の安全を祈ったそうですよ。

筥崎宮(筥崎八幡宮)あたりが箱崎宿でした。ここは福岡を旅立つ人が見送りの人と別れを惜しむ場所であり、また大名の江戸参勤の時はお城(福岡城)からこの箱崎までを美々しい第一装の、いわゆる大名行列で練り歩き、ここから旅の軽装に着替えて先を急いだそうです。逆に、長い旅を終えて箱崎宿まで辿り着いた旅人は、旅の無事を感謝してお祈りしたことでしょう。 筥崎宮(筥崎八幡宮)を過ぎると箱崎商店街が続き、街道は内陸側に大きく曲がります。

多の津3丁目の「大橋浜田町内会」の掲示板の下に、ぽつんと傾いた道標がありました。道標には「右 いの太神宮」、裏には「再建嘉永七年」(そう読めましたが間違っていたら御免なさい・・・)と彫られていました。「いの太神宮」は糟屋郡久山町猪野の「伊野天照皇太神宮 」だと思いますが、博多から参拝に向かう人が道に迷わないように建てられたものでしょうね。福岡都市高速をくぐった先の多々良川に架かる大橋は、「多々良浜古戦場の図」にも描かれています。また、古図によると、多々良川の河口近くには渡し船もあったようです。

大橋を渡って左方向に向かうと、右手に「三面地蔵尊」の案内板が建っています。「三面地蔵尊」は明治初期に起こった一揆に巻き込まれた三人の犠牲者を慰霊するために建立されたものだそうです。

国道3号線博多バイパスに沿って走ると、若宮入口交差点の手前左側に「わくろ石」があります。「わくろ石」の背面の説明では、「この付近はむかし、多々良浜の東端に位置し、蓮華が茂り、岩石が蓮華の花の姿をしているので、この坂を「蓮華坂」と呼んだ。その頃農民は、水利に苦労し、蛙の大将「わくろ」を祀り、雨乞いの神とした・・・」と彫られていました。今はそれほどの勾配とは思えない蓮華坂(れんげざか)も、昔はかなりの急勾配の坂道だったそうですよ。

【その他】  兜塚 (兜塚は多の津1丁目の流通センターの一角、流通センター西口交差点の角(お菓子のイシカワの敷地の隅)にあります)

  「兜塚由来記」より 福岡流通センターの一角を占めるこの地は、古来「花園の森」と称せられ、南北朝時代の多々良浜合戦における戦死者を祀った兜塚の敷地である。
元弘三年(1,333)鎌倉幕府を倒して建武の中興に功労があった足利尊氏は、新政への不満から反旗を翻したが、新田義貞、楠木正成、北畠顕家らに敗れ、大友、島津、小弐らの勢力を恃んで僅か一千余騎で九州に西下してきた。これを迎え撃つ朝廷方の菊池武敏、阿蘇是直らは大軍をもって北上し、延元元年(1,336)3月2日、多々良浜において決戦を挑む。結果は、折柄、北からの春嵐や水軍松浦党の謀反によって、菊池勢の大敗に終わり、尊氏は再び東上して中央の権力を恢復し室町幕府を開く端緒になった一戦であった。
諸書によれば、この合戦の犠牲者は数千人に及んだというが、いつのころからか鎮魂のための兜塚がこの地に建てられ、毎年蓮華の花咲くころ附近の人の善意による祭祀が行われてきた。
福岡流通センターの開設に伴い、周辺の風物は変貌してしまったが、兜塚の敷地には一本の楠の木が枝を伸ばし葉を繁らせている。この由緒ある故地を永遠に人々の記憶に留め、心ある人士がしばし足をとどめて悠久の歴史に想いを至されるよう念じて、ここに兜塚の由来を刻すものである。


 香椎宮〜青柳

多々良中学校の前を過ぎ、JR鹿児島本線を横切ると、右側に伸びる県道24号線(香椎宮参道)の先に香椎宮があります。香椎宮は四柱の御神体である仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神を御祭神としていましたが、今は仲哀天皇、神功皇后の二座をまつっているそうです。「香椎」の名は敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていた事に由来するといいますが、周囲には境内や周囲に関連する社もたくさんあります。

香椎駅前の濱男神社がある県道504号線の西側は、この時代は海岸線だったそうで、その後次第に埋め立てられて行って、現在の海岸線になっているようです。

県道504号線を進み、JR香椎駅を過ぎると、香椎跨線橋の手間右側の香椎宮飛地境内に「神功皇后の兜塚」があります。この兜塚は、「香椎宮御祭神の神功皇后が御西征の時、此処で兜を着け給うたと云い、或いは御帰朝後、御兜を埋め給いし所とも語り伝えられている」そうです。

JR鹿児島本線をまたぐ「香椎跨線橋」をわたり、唐津街道は「九州高前」バス停先の三差路を左側の細い道に入り県道504号線を離れます。道幅は1車線半程度になって住宅街をのぼっていきます(けっこう勾配は急です)が、「マルキョウ香椎店」の前を通り、浄光寺の裏を抜けるて県道504号線に戻ります。下原交差点から唐津街道は国道3号線沿いの東側に続いていますが、コスモ石油GSをすぎて国道3号線を斜めに横切ります。

国道3号線の東側になった唐津街道は、新出光・青柳石油香椎バイパス店の裏でいったん途切れる(道がなくなる)ので、「平田ナーセリー」のすぐ先から西側の丘に登ります。丘の頂上付近で道は四つ角になっていて、南方向には途切れた道が、そして北方向へ伸びるのが唐津街道で、しばらくは未舗装の道が続きます。途中の三差路は道なりに国道3号線と並行するように進む(丁度、福岡市と粕屋郡の境です)と、原上交差点のすぐ西側の登山用品の店の前にでますが、この部分は街道の在りし日の姿を思い起こさせる貴重な場所だと思います。でも、香椎の松香台に続いて、原上にもかなり勾配の急な坂道があるので、特に足元が悪い時などは、困難な旅だったのでしょうね。

原上交差点で国道3号線を横切ると道の右側に「夜鳴き観音」があります。「夜鳴き観音」には、戦国時代の立花城落城にまつわる昔話が伝わっているようです。

県道504号線を進むと、新宮町三代に「太閤水」があります。「太閤水」は天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで馬を休め自ら清水を汲んで飲んだところです。太閤水は社の裏にある水道から汲めるようになっていて、料金は無料ですが、ご近所の方々がきれいに維持管理をするための費用と、地下水を汲み上げる電気代として「お志」を入れるようになっているようです。私が訪ねた時も、水を汲みに来ている方がおられました。

県道504号線は道幅も広くなって青柳へと続きます。きれいな道になりすぎると、旧街道の趣は次第に消えていくような気がします。


 青柳宿〜畦町

青柳川を渡って、街道は県道504号線を離れ、旧青柳宿に入っていきます。青柳宿に入ってすぐ目につくのが「西構口跡」です。向かって右側に構口跡の石碑(「旧青柳町宿構口跡」と彫られていました)が、左側には構口の石垣の上に白い土塀を再現したものが建っています。

構口跡の石碑の横には、青柳宿の誕生に関する説明や江戸時代後期の町並み想定図などが書かれていますが、それによると
「青柳宿は慶長10年(1605年)ごろ、川原町の住民によって上町が、青柳村良仙寺の住民によって横町ができ、寛永2年(1625年)に青柳村古屋敷の住民によって下町・仲脇がつくられ本町が出来上がり、承応2年(1653年)には新町が加わり、宿場としてほぼ整いました。
宿場は長さ244軒(444m)あり、出入口に構口が設けられ、現在、西の構口の跡が残っています。宿には藩主が宿泊・休憩する御茶屋がありました。また町茶屋は上と下に2軒あり、藩主の従者や武士たちが利用しました。
宿の最盛期には103軒ほどありましたが、江戸時代を通じて84軒前後でした。江戸時代に2回、明治初年に1回の大火に見舞われています。唐津街道は黒田藩・唐津藩が参勤交代で通り、文政8年(1825年)からは薩摩藩も通っています。」

下町には明治26年2月に建立された「大宰府神社道」の石碑もあります。ここから大宰府神社へ道路が続いていたのでしょうね。

制札の付近には「青柳しょうゆ」さんがありましたが、全般的には古い建物はなくなってしまったようです。東構口(今はありませんが・・)を出ると「青柳四つ角」です。

「青柳四つ角」から「青柳交番前」交差点へ出て、県道35号線を走り、九州自動車道・古賀インター入口の北側から斜めに入り、県道503号線を横切り、再度県道503号線に合流します。県道503号線に合流する直前に「十一面観音」があり、その境内にはお地蔵さんや「庚申尊天」の石碑などがいくつも建てられていました。

この後、県道503号線沿いには、2個の道標が建てられています。この道標は、平成2年に「筵内(むしろうち)神社会」が建てられたようです。「筵内神社会」とは古賀市筵内にある「熊野神社」の氏子の集まりだと思うのですが、その方々が唐津街道を訪ねる人々の利便(雰囲気作り)のために建てられたのではないでしょうか。1個めの道標は古賀市筵内の叶L和産業手前の県道503号線の脇に建っていて、「旧肥前唐津街道 左青柳町半里 右畦町二里半」と彫られています。2個めの道標は、同じく古賀市筵内の玄海環境組合古賀清掃工場、愛称「エコロの森」の手前右側に建てられています。この道標には、「旧肥前唐津街道 左畦町二里 右  青柳町一里」と彫られています。

県道503号線はゆるやかな上りが続き、九州自動車道・古賀SAを過ぎると、左側に「旦ノ原井戸」が見えてきます。この付近は丘陵地帯(現在の井戸の位置で標高80m程度)のため水が無くて困っていたものを、文久2年(1862年)の秋から約1年をかけて井戸を掘ったと言います。井戸は道路工事などで2回移転しているため、現在は数メートルの深さしかなく、水もありませんが、約1年をかけて掘られた井戸はかなりの深さだったのではないでしょうか。

愛宕神社の先で県道503号線はいったんピーク(標高は約90m)になり、下り始めます。少し下ると県道503号線に沿って道の両側に細い道が伸びている場所が見えます。県道503号線は中央の道、唐津街道は左側の細い、急な登り道です。県道503号線は下りなので、分岐点をつい行き過ぎてしまいそうになるので、分岐点の確認には十分に注意してくださいね。私も、その先の上西郷小学校まで行き過ぎ、やっと気付いて引き返しました。良く見ると、分岐点には小さな「唐津街道」の案内板がたっていましたが、自転車だとつい見逃してしまいます。

山中の街道は勾配も急で狭く、整備が行き届いていたとしても、往時の旅の辛さを思ってしまいます。


 畦町宿〜原町(はるまち)宿

福津市内殿の上西郷小学校を過ぎて県道30号線へと右折しますが、すぐに県道503号線と合流し、まもなく畦町宿への分岐が見えてきました。この分岐には案内板があり、畦町宿の生い立ちが説明されていました。それによると、

「畦町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅のひとつであった。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の後、黒田長政が筑前の国主として入国するころまでは、まだ人家も少なかったが、寛永19(1642)年唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間(宗像市)との間、約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが畦町宿である。当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。街道を行き交う人も多く商家が圧倒的に多かった。南北に通じる町並み入口の両端には、関所のようにして「構口」があり、御制札所(ごせいさつどころ)や役人詰所があった。
宿場町として栄えた畦町村も明治時代以降は、宿駅廃止や鉄道、国道の開通など交通路線の改革とともに、宿場の機能を失った。今ではこの宿場通りも古い家は建て替えられ、昔の屋並みはなくなったが、「杉ぼて」や「卯建(うだつ)」など江戸時代のたたずまいが残っているところもあり、宿場町の名残が感じられる。」

畦町宿の北構口跡の大きな蘇鉄を右手にみて街道を進みます。畦町橋を渡り道路を横切ると民家の角に石碑が建っていました。石碑には「宗像宮道」と彫られていて、この道は「東郷」を経て宗像神社へ繋がっています。

畦町宿を出た街道は畦町橋で西郷川を渡り、溜池の横を抜けて、県道503号線に合流しましたが、道はまた上っていきます。

上り切った坂を下っていくとと、大穂町になり、すぐに原町(はるまち)が見えてきました。原町(宿跡)の入口には、「唐津街道 原町」と大書された柱が建っています。

原町宿跡は道路が落ち着いた色でカラー舗装され、家々の前には「唐津街道原町」と書かれた木製の辻行灯(つじあんどん)が設置されています。また、道の両脇には歴史を感じさせる古い建物が建ち並んでいて、それらを利用したそば屋さんや骨董品屋さん、また民芸店なんかもあり、それらを訪ねる観光客らしい人々がのんびりと散策しているのも他の宿場跡とは違う雰囲でした。できれば、構口跡とか残っていると嬉しかったのですけどね。

原町交差点を通り過ぎると右側に「原神社」があり、すぐ先で国道3号線を横切ります。この後も、唐津街道は県道503号線をトレースしていきます。そして(多分)赤間宿に着く前の最後の難関・宮田峠が待ち受けていました。

宮田峠を登り切り、桜美台の住宅街の横を下っていくと、間もなく赤間宿の入口です。


 赤間宿〜城山峠

釣川に架かる辻田橋を渡ると赤間宿です。辻田橋のすぐ先に「赤間構口」という交差点がありますが、交差点の角には、ここに「構口」が設置されていたことを示す石板が建てられています。その石板には
「構口は、宿場の両入口に置かれていた。南北600mの赤間宿には、180から200軒の家が建っていたが、その入口の石垣に土塀を築き、瓦屋根を葺いた門構えの構口があった。」と記されていました。

構口跡(信号)をすぎると、ここから「JR教育大前」駅までの道路の両側に赤間宿が拡がっていて、ここにも「赤間宿」と書かれた黒い木製の辻行灯が設置されています。

途中にある「勝屋酒造」は、寛政2年(1790年)に開かれた作り酒屋で、毎年2月中旬に酒蔵開放を行っています。辛党の皆さんは暇を見つけて出掛けてみてはいかがでしょうか?。

「JR教育大前」駅の横には、赤間宿の北側の出入口を示す木製の門柱が道路の両脇に建っています。

赤間宿をぬけ、「赤間交番前」信号から右折し、県道69号線沿いに入ります。左側(北側)には福岡教育大学のキャンパスが続いています。「ミスターマックス」や「ゴルフ5」の店舗を横目に見ながら通り過ぎると「城山」交差点があり、その先に「城山登山道 東入口」の案内板があるので、その案内板に従って左折します。

城山登山道(唐津街道)は福岡教育大学の野球グランドのフェンスの外側をぐる〜っと囲むように続いていますが、グランドを過ぎると街道は北側(山側)へまっすぐに延び、突きあたって右へ曲がります。ここまでの途中にも唐津街道の小さな案内板が立っているので、ルートの正しさは確認できます。

右へ曲がった唐津街道は、はじめは竹林の中に1車線程度の山道として続いていますが、次第に細く荒れてきて、自転車は押したり抱えたりすることになりました。竹林の中を500mほど歩いて、「太平寺福岡別院」手前の倉庫横に出ることができました。ここから舗装道路になります。

「太平寺福岡別院」前を下っていくと、「武丸北(たけまるきた)」信号で国道3号線に出て、このあと岡垣バイパス・城山トンネルの入口まで、国道3号線沿いを登っていきます。このあと、唐津街道は国道3号線をくぐって、海老津市街へと下っていきます。


 海老津〜芦屋宿

唐津街道は城山峠から岡垣市街へ下っていきますが、道端に建つ「荒平神社の赤い一の鳥居」の奥で川沿いの細い道へ分かれ、また県道に合流しますが、その細い道は荒れ果てていて、倒木などが道を塞いでいました。赤い一の鳥居まで引き返して県道へ戻り、海老津団地入口の先で県道に沿って続く細い道に入り、道路を横切って走ったあと、松田交差点の手前で県道287号線に合流しました。

松田交差点を右折してJR海老津駅前に出て、県道218号線の高架をくぐると、海老津市街です。

のんびりと海老津市街を抜けていきます。今は静かな住宅街を抜けていきますが、昔日の唐津街道はどのような往来だったのでしょうか。きっと、穏やかな田舎道だったのでしょうね。

町民体育館と幼稚園の間を抜け、ナオミ美容室の前を斜めに横切ると、再び県道287号線に出ます。県道287号線を横切り、JAおんが斎場の前から斜めに入るのが唐津街道で、山田小学校の横を道なりにのんびりと進んでいきます。矢矧川を渡り、国道3号線岡垣バイパスをくぐると、再び県道287号線に合流します。

県道287号線をしばらく走ると、県道287号線と交差する県道285号線が見えてきます。

県道286号線にでたところで「前牟田橋」交差点を渡り、矢矧川に架かる前牟田橋を渡ってすぐ斜め左方向へ入り、須賀神社の前をゆるやかにカーブしながら上って岡垣町北原で国道495号線に合流します。国道495号線に合流すると、すぐに芦屋町に入ります。

唐津街道は国道495号線の「粟屋交差点」を直進し、航空自衛隊芦屋基地の敷地内を抜けて芦屋市街(芦屋小学校の前)に入っていきますが、基地内を通ることはできないので、芦屋基地の外縁に沿ってを迂回するように進みます。「芦屋競艇場入口」、「浜口公民館前」、「緑ケ丘」、「(芦屋基地)正門前」の各信号(交差点)を通り、芦屋小学校の前に出れば、再び唐津街道をトレースすることができます。

芦屋小学校前を再スタートし、白浜神社、芦屋小学校前交差点を渡って幸町に入ると、道路の右側に「筑前蘆屋宿場構口の跡」(右の写真)が見えてきます。多分、ここが南側の構え口の跡で、これと対になる構え口があるはずと思って、注意深く探しましたが、見つかりませんでした。ひょっとしたら、遠賀川の渡しが構え口を兼ねているのかもしれませんね。構え口の先には、劇場大國座跡(明治時代に建てられた劇場跡)や蘆屋警察署址、そして恵比寿神社などがありますが、宿場から遠賀側を見下ろしていると、往時の風景が目に浮かぶようでした。

芦屋宿跡は、遠賀川に突きあたって右折し、芦屋橋の少し下流に蘆屋の渡し場跡碑が建っていました。


 山鹿〜若松宿

芦屋橋を渡り切って左折し、県道202号線のひとつ北の通りを並行に進み、城山神社の角を右折して山鹿唐戸交差点を渡りました。すぐに汐入川を渡って山鹿地区に入り、山鹿後水交差点で国道202号線に出ました(本来の唐津街道は山鹿地区を斜めに横切って芦屋製作所の敷地内を横断し、一本松跡で国道202号線に合流していたようです)。

すぐに大君交差点を左折し高須地区へと道は続きます(このルートは若松街道とも呼ばれていたようです。若松街道は芦屋と若松をつないでしました)が、途中の山道(短い区間ですが山道の雰囲気です。山道はすぐに終り住宅街が開けてきます)は高台を切り開いて作った切り通し道のようです。高須西一丁目交差点を横断して川沿い(江川の支流)に進み、県道26号線の高架をくぐると小敷地区で江川の横に出ます。

江川に架かっている橋が太閤橋(右の写真)で、調べた範囲では太閤秀吉がこの橋を渡っという記録はないようですが、朝鮮出兵のために肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町)に出陣するにあたり、道路の整備と給水所の設置を命じました。そして、その時に若松区小敷に設けられた給水所がのちに「太閤水」と呼ばれるようになり、その近くに架けられたため太閤橋と名付けられたようです。

大君交差点を直進し、向田橋交差点から江川沿いに県道26号線を進み、途中の浅川橋から対岸に渡って続くルートもあったようですが、このルートも太閤橋で合流します。江川は東は洞海湾に注ぎ、西は遠賀川河口に合流する感潮河川のため、全区間で潮位の影響を受けるそうです。また、この川は人工開削されたものではなく、元々は洞海湾と響灘を結ぶ海峡であった事から、水源の無い両側に河口があるという珍しい河川だそうです。ということは、北九州市の若松区はもともとは遠賀側と響灘と洞海湾に囲まれた島だったんですね。

江川沿いの道を走って小敷橋、小敷橋交差点を渡り、妙泉寺の前を通って県道11号線を横断、大鳥居交差点を横断し江川沿いに出ましたが、江川の南側は工事のため通行禁止になっていたので、江川の北川の遊歩道を走りました。江川沿いの遊歩道は途中から工事中で通行できなかったので、時折、県道26号線を走ることになりました。

蒲生田交差点で国道199号線に入りました。しばらく国道199号線を走り、東二島三丁目交差点の少し先(日吉神社の一の鳥居の先)を左折し、少し上ると日吉神社の鳥居(二の鳥居?)が正面に見えてきました。これまで平地に続いていた唐津街道は、ここから山手に続くようになります。明治以降(洞海湾の埋め立てが進んだ後)の唐津街道(明治道)は洞海湾沿いに続いていたようですが、それまでは山沿いに続いていたようです。

日吉神社の周りを時計回りに迂回して、東二島の住宅街を抜け、小川を渡って西天神町を抜ける。童子丸二丁目の突きあたりを右折し、一つ目の角を左折します。この付近には団地が多いようですが、道は少しずつ上りながら、次第に家々が少なくなってきました。いったんピークを過ぎて用勺町(ようじゃくまち)に入りました。今光町(いまみつまち)に入り藤木小学校、石峯中学校を右手に見て進むと、道は少しずつ下っていき、かなり国道199号線に近づいてきました。

和田町を過ぎると道はまた上りになります。約600mほどで30m少し上り、また50m少し下る。そして約500mほどで50m近く上ります。ピークには金毘羅神社の参道がありました。それにしても二島から若松の区間だけにでも、これだけのアップダウンが続くと、参勤交代や普通の旅でも大変だったでしょうね。

金毘羅神社の入口を過ぎるとJR若松駅前までゆるやかに下っていき、商店街を抜けると若松渡船場に着きます。若松側からみた若戸大橋です。若戸渡船の運賃は大人100円、自転車50円です(2011年11月時点)。


 戸畑〜小倉

北九州市のホームページによると、江戸時代中頃までの戸畑は、街道も通っておらず、宿場町でもなかったので、人の行き来はほとんどなく、人も家も少ない小さな村だったそうです。でも、東戸畑市民センター(戸畑区千防三丁目1番12号)の刊行物には、市民センターの北側が小倉北区の常盤橋から続く、旧唐津街道の名残りをとどめる歴史的な地域であると記述されています。

他の資料からも、江戸時代末期の慶応時代には小倉駅の南側をJR鹿児島本線に沿って「中井口」まで続き、そこから南西に進み、境川に架かる宮川橋から県道50号線にぶつかるまで国道199号線と平行に続く住宅街の細い道が「伝・慶応道」と呼ばれる唐津街道だったようです。時代によっては宮川橋から境川の東側を河口までくだり、河口から「中井口」につながっていたようです。

右の写真が、東戸畑市民センターの北側に続く唐津街道ですが、自動車がすれ違うこともできないほどの1.5車線ほどの道(小路)が続いています。多分、唐津街道の頃の道幅が、そのまま残っているのではないでしょうか。

右の写真は、戸畑区小芝3丁目1-13の「カットサロンホクト」の駐車場内に設置された「唐津道・戸畑一里塚跡」の石碑です。

三六市民センターのホームページによると、「幕府の命により全国の街道が整備され、各地に交通の目標のため一里塚が設けられました。同時に各藩が幕府に藩の地図を提出し、筑前国黒田藩が作成した正保地図(県立図書館蔵)に唐津街道の小倉常盤橋より西へ一里、豊前国境より十一町の地に一里塚がしるされています。これに基づき戸畑区小芝の地に、唐津街道戸畑一里塚を復元設置致しました。なお石碑には戸畑区高峰町より産出された戸畑石を使用しております。当時はこのあたりは人家もなく一里塚は重要な目標となったと思われます」と説明されています。

また、復元設置された戸畑一里塚に併設されている案内板には、
「小倉常盤橋 筑前六宿長崎道、若松修多羅(すたら) 二十一宿唐津道 二つ結んだ戸畑往還道 一里塚
 江戸、寛永(三代家光)年間に整備された街道の目標として、藩境川より西十一町(約1,050m)、此地、戸畑一里塚と江戸正保の古地図に記録あり。
 人と人、時と時を結んで道は生きている。海往く、陸往く、町を往く、島見ゆ、空見ゆ、社見ゆ、そんな街道の物語。
 北九州市文化連盟 戸畑郷土史会」
と記述されていました。

「中井口」から小倉常盤橋までの唐津街道沿いには、刑場跡や極楽橋(かっては地獄橋と呼んでいたという)、そして八坂神社跡(現在は小倉城内に移設)、若松口門跡、大門跡があります。

 太閤水(福津市八並) −太閤水の案内板より−
天正15(1587)年3月、九州征伐の軍勢をおこした太閤秀吉は、島津義久降伏後帰途につき、肥後〜筑後を経て筑前大宰府に入り、同年6月7日箱崎に到着した。 箱崎滞陣中、九州の国割りや博多の町割りを行い、再三度の茶会を催し、連歌などを興行して7月1日朝、箱崎を出発した。

途中青柳(古賀町)辺りで昼食後、おりからの猛暑の中を宗像(城山)を目指して軍勢を進め、ここ山の口峠(八並)にさしかかった際、あまりの暑さに水を求めた。
秀吉は、ここの清冽な涌水を汲ませて喉をうるおし大変喜んだと伝えられている。

以来この清水を里人は「太閤水」と呼び、街道を行き交う人びとの飲料水となった。


 旦ノ原井戸(古賀市筵内) −旦ノ原井戸の案内板より−

旦ノ原は糟屋・宗像ニ郡の境で、筵内・薦野・内殿・上西郷の四ケ村にまたがる丘陵一帯のことをいいます。

江戸時代は、ここを通る道を唐津街道といって参勤交代の要路でありましたが、丘陵にあるため水がなくて困りました。

この実情を当地に住んでいた伊藤忠平氏が、大庄屋の石松林平氏に訴えて、井戸を掘ることを御願いしたところ許され、 伊藤忠平氏の屋敷に文久2年(1862年)の秋、井戸を掘り始め翌3年の秋できあがりました。

以来住民にも旅客にも便利になり、この井戸は「2郡4ケ村井戸ひとつ」と呼ばれるようになりました。


 太閤水の井戸(新宮町三代) −太閤水の井戸の案内板より−

天正15(1587)年関白豊臣秀吉が、当時、九州の大部分を征服していた島津義久に対抗し、ただ独り立花の孤城を死守し続けた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けて、3月自ら軍を進め、遂に島津氏を降し九州を平定しました。

その帰途6月24日、ここで馬を休め自ら清い水を汲んで飲んだ所です。

往路この地で水を求めたとき良い水がなかったので、同行していた堺の茶人「津田宗友」が、この崖下に掘り当てた湧き水です。

秀吉は、このことを聞くと即座に「宗友水」と名付けましたが、寛永5年(1626年)京都大徳寺の僧「江月宗玩」(宗友の子)が立ち寄った際「飯銅水」と改めさせ、後の人が石畳の井戸を造り太閤秀吉にちなんで「太閤水」と呼ぶようになりました。


 お勧めの本「唐津街道」

筑紫野市の河島悦子さんが、唐津街道を紹介するマップ本「唐津街道」を自費出版されました。河島さんは平成9年に「長崎街道」を出版されていますが、 今回の唐津街道は長崎街道ほど有名ではないため、自費出版になったとのことです。

申し込みは河島さん宅(092-928-1863)で、B5版、147頁で2,300円(送料込み)です。興味ある方は、是非申込んで下さい。


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