日田街道・道中記2013
|石櫃〜甘木|甘木〜志波|志波〜久喜宮〜夜明|夜明〜日田|
石櫃〜甘木
筑前(福岡)の日田街道は、博多から宰府、二日市、甘木、志波(しは)、久喜宮(くぐみや)などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。
前回、博多から石櫃まで走ったので、今回は石櫃の追分石からスタートです。道標には「右 肥後薩摩道」「左 豊後 秋月 日田 甘木道」と印されていて、肥後薩摩道(豊前街道)と日田街道の分岐点です。石櫃の追分を日田の代官所跡へ向け、東へ走ります。自宅からここまで約24km、天候は曇りで(予報では晴れだったのに・・・)、時折り小雨がちらつく、ちょっと寒いなかでのスタートです。
日田街道は国道386号線の北東側に並行して伸びています。両脇に広がる田んぼは、すでに稲刈りが終わり、「大豆」が黄色く実って収穫を待っています。日田街道の北東側に続く古処(こしよ)山地から、時折り、雨粒を含んだ冷たい風が吹き下ろしてきます。
旧街道跡を偲ばせるものは、道路脇に立つ「道祖神」や「恵比寿さま」、そして、時折り、由緒ありそうな古い神社やお寺が現れますが、それ以外は、淡々とした普通の田舎道が続きます。
松延池、高木神社、そして當所熊野神社(右の写真)が見えてきましたが、當所熊野神社は背面が日田街道に面していました。神社などは正面が主要街道に面しているのが一般的なので、神社が創建された当時は、街道のルートが今と違っていたのかもしれませんね。
由緒ありげな(ここ一帯の庄屋さん風?)巨大な枯れ株に石垣、石塀と門なども現れて、空想(妄想?)を掻き立てます。また、大宰府天満宮のご神体が一時的に(14年間)移されたことがあるという老松宮の巨大な楠も遠くから見つけることができます。
依井・新町交差点で県道112号線を横切ると、もう甘木宿の入口です。
甘木〜志波
県道112号線を横切ったらすぐに左折し、県道112号線のすぐ南側を並行して続いています。道路脇には格子戸のある古い建物が残っていて、昔の宿場町はこうだったんだろうな〜と偲ばせます。
小石原川を渡ります。この鉄製の橋(小石原橋?)は歩行者専用ですが、すぐ上流に甘木橋が見えています。甘木市街では、横川通り、二日町通り、本通りと名を変え、アーケードへと続きます。
右の写真は、甘木市街のアーケード『甘木アーケード商店街』ですが、日田街道はこのアーケードを抜けていきます。甘木宿の建物が、そのまま商店街となり、アーケードができたものでしょうね。
アーケードを抜け、すぐに右折して安長寺通りに入り、右側に「安長寺」を見て、すぐに左折します。交通量が多い昭和通りを横切れば、まもなく県道112号線に合流します。
石の橋交差点で県道112号線に合流し、しばらく(4kmちょっと)道なりに進みます。古賀茶屋交差点(昔は茶店があったのかな?)で国道386号線に合流します。
日田街道は、朝倉市大庭の石松組甘木営業所の入口あたりから国道386号線を離れ、斜めに分岐します(地図の点線の部分)が、ちょうど石松組甘木営業所の玄関と街道の分岐点が重なって道が消えているので、その先から日田街道に入ります。日田街道に入って振り帰り見たのが右の写真で、写真の一番奥が石松組甘木営業所の入口あたりです。道は、しばらく未舗装ですが、まもなく舗装路に変わり、すぐに、荷原川(いないばるがわ)に架かる石橋『久保鳥橋』を渡ります。
間もなく、道路の両脇にあさくらの老舗蔵元『千の蔵』(朝倉市比良松)が見えてきます。『千の蔵』は江戸後期に創業された蔵元で、これらの堂々とした建物は当時の日田街道を知っているのでしょうか?。街道は間もなく、大分自動車道をくぐります。
古毛(こも)交差点で国道386号線を横断し、老松神社を横目に見ながら古毛地区を走り、菱野交差点で国道386号線に戻る。三連水車の里あさくらを横目に見て通り過ぎると、恵蘇八幡宮の大楠が見えてきました。
恵蘇八幡宮の道向かいには、水神社(すいじんじゃ)が建っています。水神社は、筑後川から山田堰によって堀川用水へ取水するための切貫水門の取水口上に祀られていて、工事の安全と水難消除のために建てられたそうです。なお、朝倉の二連水車、三連水車は、堀川用水の水を田んぼに取り込むために造られたものです。
朝倉市のホームページによると、山田堰(右の写真)は江戸時代前期寛文3年(1633)、筑後川から水を引き、150haの新田を開発するために作られたもので、現在も、670haの美田を潤しているそうです。朝倉の三連水車は筑後川の水を引き込んだ堀川用水に作られています。この山田堰の工法はペシャワール会によってアフガン復興支援の灌漑用水モデルとして活用され、多くの田畑を潤し人々の生活を支えています。
山田堰でおにぎりの昼食を摂り、休憩して出発しました。しばらく国道386号線を走って大分自動車道をくぐります。北川を渡って本陣橋交差点(本陣橋という名称が、宿場跡らしいですね)を左折し500mほど走ったあたりが志波宿の中心だったようです。志波宿と久喜宮宿は、福岡藩27宿のひとつに数えられています。
志波宿をさらりと過ぎ、志波郵便局の先を右折して、再度、大分自動車道をくぐり、国道386号線に合流します。
志波〜久喜宮〜夜明
国道386号線の原鶴温泉入口交差点のすぐ先を左折すると、すぐ右手に大きな『大膳楠』が見えます。『大膳楠』の前を道なりに走っていくと、愛宕神社や建立寺、長念寺、そして須賀神社などが、道路脇に建っていますが、この付近が久喜宮(くぐみや)宿の中心だったようですが、志波宿の中心からここまで3km弱、かなり短い区間で二つの宿があったようです。
裏通りをそのまま進むと国道386号線に合流します。浜川交差点を斜めに横切って裏通りに入ると、そこはもう杷木市街で、旧街道を偲ばせる古い建物が並んでいました(当時のものにしては、建物が新しすぎるかな?)。
杷木市街は、あっという間に通りすぎてしまいます。
杷木市街を抜けるときに道を間違い易いため、特に注意が必要な場所がここ(右の写真)です。国道386号線に合流する手前で、ぐるっとUターンして下って行きます。
小さな橋を渡り、国道386号線を横切って、と杷木小学校の横を抜けていきます。赤谷川にぶつかったら国道386号線に戻って頼母橋(左の川が赤谷川で、正面の橋が国道386号線に架かる頼母橋)を渡り、すぐに国道386号線を外れて日田街道に戻ります(結果的には、すぐ国道386号線に戻ることになりますが・・・)。
赤谷川を渡ったすぐ右側(筑後川寄り)に『杷木神籠石(はきこうごいし』という遺跡があります。神籠石は、山の尾根と谷をいくつか取り込んで大きく外周に土塁をめぐらした古代の山城の一種ですが、杷木神籠石は、筑後川の水流を利用するため、2カ所の水門が設けられているそうです。杷木神籠石を過ぎて、しばらく国道386号線を走ります。
九州電力・夜明発電所を右手に見て走り、夜明トンネルの手前から左折しました。この付近から日田街道のルートが良く分らなくなるのですが、とりあえず、古い屋敷ある関町方面に入ってみることにしました。この先には、国指定の重要文化財である行徳家住宅や大神宮があるようです。
行徳家住宅や大神宮を過ぎると、旧街道の雰囲気は完全に消え、大分自動車道を建設するために造られたと思われる道路になってきました。それも急坂の・・・・。このルートは違うな〜と思いながらも、上り坂を前にして引き返すのは臆しているようで気分が悪いので、とりあえず前進することにしましたが(悪い癖です!)、これがとてつもない激坂で・・・・、それも、どこまで続くか分らないような・・・・。
道(ほぼ農道状態)は大分自動車道とみかん畑の間を抜けて行きますが、ごく稀にすれ違うのはみかん収穫用の軽トラックだけ。息も絶え絶えになりながら(途中で1回だけ押して)、どうにか谷あいの夜明地区に出る(降りる)ことができました。
夜明〜日田
やっとのことで夜明地区の大肥川近くまで降りてきました。ここから、もうひと山越えが待っています・・・。
道は、大肥川を渡り、JR日田彦山線をくぐり、更に大分自動車道をくぐって、萩尾公園をぐる〜っと迂回するように走って、日田市街へ下って行きます。JR日田彦山線をくぐる前に振り返ると、眼鏡橋の小月橋が見えました。
大分自動車道をくぐって左折すると(右折すると行き止まり)、またまた急坂が待ち受けていますが、日田市街を目前にして引き返すこともできず、後は、耐えて(頑張って)登りきるだけ!。結果的には、ここから萩尾公園のグランド付近まで1kmも無いくらいでしたが、最期の頑張りどころでした。
萩尾公園までくれば、もうちょっと上って、あとは降るだけです。二串川を渡り、花月川沿いの裏道を走って左折すると、正面に月隈山(月隈公園)が見えてきました。
ゴールの月隈公園です。江戸時代には丸山城として築かれましたが、後に日田陣屋(日田代官所)となり、現在は、城跡は石垣と堀の一部が残るだけになっていますが、城跡の石垣と白壁、堀と桜がマッチした美しい公園として整備されています。
案内板には『1639年(寛永16)に大名預けであった日田は再び幕府の直轄地となり、幕府代官として小川藤左衛門正長・小川九左衛門氏行が派遣された。同年「永山布政所」が開設され「日田代官所」が成立した。また、1767年(明和4)には日田代官から西国筋郡代へと格上げされた。』と記述されていました。
月隈公園を後に、豆田町を散策(ポタリング)して、JR日田駅から輪行して帰途に着きました。
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