はじめに
豊前街道は田代宿の追分で長崎街道から分かれて、久留米、羽犬塚と筑後路をくだり、瀬高宿の追分で山越えの本道(原町〜南関〜山鹿)と海沿いの道(江浦〜三池〜高瀬〜木葉)に分岐した後、熊本に至ります。延宝3年(1675年)には、山家(やまえの)宿から松崎、府中(久留米)を経て羽犬塚へ至るルートも開かれました。 |
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長崎街道・田代宿に「右 さが、左 くるめ」と刻まれた追分石があり、ここがはるかな薩摩(鹿児島)へのスタートです。
豊前街道の最初の宿場は、筑紫平野の中心に位置する有馬氏21万石の久留米でした。田代から国道3号線に出て久留米大橋を渡り、 東櫛原1丁目の交差点を右折して国道209号線に入りますが、信号を直進してJR櫛原駅前を右折し、寺町周辺を散策するのもお勧めです。 寺町は江戸時代から続く町名で、現在も20近い寺院が甍を並べています。久留米市街を抜けて国道209号線を進み、羽犬塚宿を目指します。
豊前街道には別なルートもありました。「山家宿」から日田街道を進み「石櫃」の追分を右折して「松崎」、「府中(久留米)」経由で「羽犬塚」へと向かう道です。筑紫野市の西端の「馬市」には筑前・筑後の国境石が並んで(国境石を筑前・筑後の両藩が建てたものです)建っています。 筑後領の最初の宿場は「松崎宿」です。松崎宿には北構口跡や宿場の街並みの面影がしっかりと残っています。 松崎宿の次ぎは府中(久留米)宿です。筑後川を船渡しで「神代」へ渡り、そのまま進むと府中宿でした。府中宿は現在の「御井小学校」が本陣で、御井町の商店街が府中宿の中心でした。御井町から養護学校前を通り、上津町から相川へと薩摩街道は進みます。 ![]()
国道209号線を走り「一條」を抜けた筑後市街が羽犬塚宿の跡です。羽犬塚は古くから宿町と云われ、旅人の宿泊・休憩・乗継が行われた場所です。国道209号線の免許試験場交差点付近が北構口で、宗岳寺と六所宮の間に本陣(お茶屋)や問屋が道をはさんで軒を並べていたそうです。山ノ井川の手前を右折して法務局の角を左折し、山ノ井川を渡ったすぐのところに南構口がありました。
花宗川を渡ってニ本松交差点を過ぎると、左側に「郡境石」が残っています。その先は「船小屋温泉郷」、のんびりと温泉につかるのも良いものです。 矢部川は昔は橋も無く、船渡しもできなくて、徒歩による「歩渡」で浅瀬を渡るしか方法が無く、旅人は難儀したそうです。
矢部川を渡ると楠の木が繁る「中の島公園」が道の両脇に広がります。楠の木は大水による堤防の決壊を防ぐため江戸時代に植えられたそうですが、今はゆっくりと休憩できる木陰を提供してくれています。 長田を抜けて東山農協の先の出光GSから左へ折れた細い道(県道774号線)が、清水寺の前を抜けて南関へと向かうルートです。国道209号線をそのまま直進すると海沿いルートになります。
左手に清水寺を見て更に進み、山川町役場前で国道443号線に合流します。山川町役場前には旧跡・遺跡の案内板が建てられていますので参考にして下さい。山川町には「平家の塔」や「太閤道」等、田舎の町とは思えない旧跡・遺跡が残っています。 九州自動車道をくぐると「北の関」バス停がありますが、ここは筑後と肥後の国境の筑後側の関所「北の関所」があったところです。 「北関バス停」の少し先の道路際に案内板があり、九州自動車道沿いに更に10分程歩いた山間に、幕府直轄であった「松風の関」碑がありますが、山間の道は雑草が伸び旧跡も忘れ去られてしまった様子です。 豊前街道は九州自動車道を渡り(正しくは豊前街道跡を九州自動車道が横切った)、自動車道の西側を並行して南関へと進みます。![]()
松風の関から山鹿の手前まで、豊前街道と国道443号線が重なるのはほんの一部で、全体的に国道443号線の西南側を通っていました(南関から山鹿までの豊前街道は肥猪町(南関町)、平野(三加和町)、鍋田(山鹿市)を経由していました)。 このルートも西南戦争の戦場となったところで、いたるところに西南戦争の遺跡があります。 国道443号線を進んだ肥後(熊本)側の関所「南の関」が南関です。南関には町役場を中心として「御茶屋跡」や「西南の役」時に本陣となった「正勝寺」等の宿場跡があります。 「御茶屋跡」は町役場の裏にありますが、今はもう廃屋に近く忘れられてしまった様子です。また、南関は「北原白秋」が生まれた町でもあります。
国鉄バス・南関バスセンター前には南関町の旧跡・遺跡に関する案内板が建てられていますので、宿場跡巡りの参考になると思います。![]()
三加和町を抜けると、温泉と灯篭祭りで有名な山鹿市に到着します。山鹿市街手前の鍋田には岩野川沿いに「鍋田横穴古墳」がありますが、 「岩野川」の本流である「菊地川」沿いにも「トンカラリン」等の有名な古墳群があります。興味のある方は時間を作って訪ねてみてはいかがでしょうか!。国道3号線を横切って山鹿市街の入口・上町へと進みます。 山鹿は温泉の町で、気軽に入れる温泉がいくつもあります。市街の中心にある「温泉センタープラザ」内にも温泉があり、入浴することもできます。すぐ手前にはトイレの完備された公園もあり、休憩/食事/トイレの好ポイントです。 山鹿郵便局の先から入った「大宮神社」には、毎年8月16日に行われる「灯篭祭り」で奉納された灯篭が展示されています。すべて紙で作った伝統ある芸術品です。非常に珍しいものなので、できれば訪ねてみてください。お土産には灯篭をかたどった「灯篭最中」や「馬刺し」がお勧めです。 国道3号線に戻り「菊地川」を渡って「熊本市」を目指しますが、山鹿から植木の間、豊前街道は国道3号線の西側を通っていました(郷原(鹿央町)、元広(鹿央町)を経由していました)。植木から熊本の間は豊前街道と国道3号線はほぼ重なっています。
植木町役場前の交差点を直進し(右方向はバイパスです)植木町市街へと進みます。植木郵便局の先から右折すると西南戦争で有名な「田原坂」方面へと向います。少し遠回りになりますが、つつじの季節は丘が花で埋め尽くされます。![]()
「大窪2丁目交差点」を右斜め方向へ進み池田町、京町を経て熊本市街へと進みます(「大窪2丁目交差点」を左斜め方向へ下ると熊本バイパスに入ってしまします。注意して下さい)。 大窪周辺と徳王から出町にかけては凹道(切通し)となっていますが、これは加藤清正が台地上を移動する味方の軍勢を遮蔽するために構築したと言われています。また、「京町二丁目交差点」は鍵型道を斜めに切って交通の便を良くしたもので、 いろいろなとこに合戦を意識して熊本の城下町が造られています。 京町一丁目の「教育会館前交差点」を右折して熊本城の新堀門(新堀橋)へと進みます。なお、左折すると観音坂を下って豊後街道(大津街道)となります。熊本博物館の前を通り藤崎台球場の北側から西側へと抜け、藤崎台童園から電車道に下ります。 熊本YMCAの東に清爽園という公園がありますが、江戸時代はこの付近に新1丁目御門があり、ここが江戸時代の肥後国の道路の起点(道路元標)になったところです。御門の前には広場が設けてあり、平時(合戦時は軍隊の集合場所)は高札場として利用されていたそうです。 清爽園には道路元標跡を示す碑が建てられています。熊本城は日本3大名城に数えられるお城です、是非見学していってください。「熊本ラーメン」も、うったまがるごつうまかばい!。
古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ唯一の街道が通り、その中で「背戸坂」と呼ばれた最も峻険であり要害の地でありました。
平家物語に「寿永2年・・・・菊池次郎高直は都より平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にひっこもり、・・・・。」とあり、 ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。 寿永2年(1183年)、当時既に関所として菊地氏によって守られていたこと、7世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うこと等が解ってきています。 真弓廣有公が松風の関に布陣したのは正平14年(1359)頃でないかと思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。 その後、戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、戦国時代の終わりに田中吉政が、筑後国・32.5万石の領主として柳河城に入ると、 慶長6年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っています。![]()
この道中案内記を作成するにあたり、参考にした文献は以下のとおりです。もっと詳しく知りたい方はこれらの本を参照してください。 薩摩街道は参考文献が少なくて苦労しました!。 ・熊本県歴史の道調査−豊前街道−(昭和58年、熊本県文化財保護協会)
・熊本の街道と峠−熊本の風土とこころ第二集−S(岩本政教編著、熊本日日新聞情報文化センター)
・九州の道、いまむかし(葦書房)
・筑前の街道(近藤典ニ著,西日本選書)
・福岡県文化百選.道編(西日本新聞社)
平成12年6月に熊本県立図書館に行き、「熊本県歴史の道調査−薩摩街道−(昭和58年,熊本県文化財保護協会)」のコピーを入手しました。
この資料をベースに検証し、熊本市以南をレポートするつもりです。ご期待ください。
でもこの資料も鹿児島県境までしか記録されていないので、鹿児島県内は別途調査する必要があります。