豊前街道・道中記

はじめに石櫃〜松崎松崎宿松崎〜府中(久留米)府中(久留米)〜羽犬塚羽犬塚〜瀬高〜南関南関〜山鹿〜植木植木〜熊本参考文献

はじめに
豊前街道は筑前六宿のひとつ・山家宿から長崎街道を下り、すぐに交差する日田街道を2kmほど西へ行った石櫃を起点(石櫃の追分石が建てられています)として、松崎、府中(久留米)、羽犬塚と筑後路をくだり、瀬高宿の追分で山越えの本道(原町〜南関〜山鹿)と海沿いの道(江浦〜三池〜高瀬〜木葉)に分岐した後、熊本に至ります(これまで、長崎街道の田代宿を豊前街道の起点としていましたが、その後の調査では日田街道の石櫃を起点とする資料が多いこと、また主要な街道というわりには田代宿から久留米へ至るルートの資料が少ないことから、上記のように変更しました)。

豊前街道には薩摩街道という呼び名(別名)もありますが、ここでは私の出身地である熊本での呼び方に従い、熊本より北を豊前街道(石櫃の追分から熊本まで)、南を薩摩街道(熊本から鹿児島まで)としています。薩摩街道は熊本を出て、川尻、八代、日奈久、田浦、佐敷、水俣を経て薩摩に入り、出水(いずみ)、阿久根、川内 (せんだい)、串木野、市来(いちき)を経て鹿児島に至ります。

豊前街道とは、もともと豊前の国・小倉へ至る街道の意味ですが、江戸時代に長崎街道が脇街道として整備されるにつれ、長崎街道・山家宿(の近く)までを豊前街道と称するようになっていったようです。

また、薩摩街道は坊の津街道とも呼びます。薩摩半島の西側に位置する坊津は、古来より那の津(博多)、安濃津(伊勢)と共に日本の三津と称され、古代から近世へと海外貿易と仏教文化が渾然一体となって栄えた港町であり、そこへ至る街道も整備され繁栄してきました。そういう面では街道の古称が「坊の津街道」であり、江戸時代の参勤交代により薩摩街道と称されるようになったのでしょう。街道の名称にこだわらず、その背景を考えてみると、さらにイメージが拡がっていくようです。

府中(久留米)以南については、より詳しく検証(検走)しようと準備を進めています。
石櫃の追分石

石櫃〜松崎   石櫃から松崎までの走行ルート
長崎街道・山家宿の西構口跡を出て長崎街道を南下すると、間片(まがた)交差点で国道200号線に合流しますが、ここで国道200号線とクロスしているのが日田街道です。この日田街道を福岡(筑前)方面へ進み、二(ふた、旧名・二村)から左折し原田宿へ向かうのが長崎街道で、これとは逆に、日田街道を西へ2kmほど行った石櫃(いしびつ、朝倉郡筑前町石櫃字瓦田)から右折して筑後・松崎宿へ向かうのが豊前街道です。

長崎街道と日田街道がクロスする三差路(現在の間片交差点)は「大又」と呼ばれ、山家宿番所も置かれていましたが、ここは長崎街道、日田街道、豊前街道が集まる、いわばジャンクションみたいな場所で、交通量は非常に多かったそうです。そのためか、石櫃は、当時山家宿の下宿として賑わっていたそうで、往時を思わせるような建物も残っています。

石櫃には「右 肥後薩摩道」「左 豊後 秋月 日田、甘木道」と刻まれた追分石があり、ここからはるかなる薩摩(鹿児島)への道が始まります。石櫃から松崎、そして府中(久留米)へ至るルートは、延宝(えんぽう)年間(1673〜1681年)に松崎街道/松崎往還として開かれましたが、それまでは宝満川に沿った横隈街道(筑前街道)が天下道(参勤道)として利用されていたようです。

豊前街道の始まりです

街道の道幅は3m程で、松崎往還の一部はこれまで拡幅もされずに街道本来の形状を今に残しているそうです。久留米藩領内の主要道路は「往還(おうかん)」と「小道」に大別され、豊前街道は往還の扱いです。正徳四年(1714年)に定められた掟書(おきてがき)には「隣国往還の道幅は前々より相定めの通りなるべし。そのほかは一切(いっさい)道幅3尺(90cm)に限るべし」とあり、往還そのものの道幅は記されていませんが、道の規模が必要以上に大きくならないよう規制されていたようです。天下道(参勤道)のわりには、意外と狭いのに驚きです。

「石櫃の追分石」前をスタートし、すぐに国道386号線を横切りました。ちょっと北風が冷たいですが、きれいに晴れ上がった自転車日和です。

田んぼ(冬の間は麦畑)の中を伸びる県道595号線(山家西小田線)を道なりに進むと、県道53号線(久留米筑紫野線)に入ります。県道53号線はけっこう交通量があるので、並行している農道を走ることにしました。

曽根田川に架かる東小田橋を渡ってすぐに右折(県道595号線を横断)し、素朴なたたずまいの「水神社」の前を抜けて県道595号線を進むと、馬市(うまいち)で県道53号線と再合流します。

しばらく走ると(西小田で)左側に大きな楠の木が現れ、その向かいに「筑前・筑後国境石」が建っていますが、これは、筑前(福岡藩)と筑後(久留米藩)の国境を示すために建てられた国境石で、この付近は現在も筑紫野市と小郡市の境となっています。そしてそのいわれは以下の通りです。
筑前・筑後国境石

大きさを競いあうように並んで建てられた二本の国境石には、「従是北筑前国(これよりきた ちくぜんのくに)」、「従是南筑後国(これよりみなみ ちくごのくに)」と彫られていますが、これは、延宝年間(1673〜1681)に筑後国・府中宿(ふちゅうしゅく)から筑前国山家宿(やまえしゅく)に至る松崎街道/松崎往還が整備されたことに伴い、江戸時代後期に福岡藩と久留米藩によって建てられたものだそうです。

筑前・筑後国境石(西小田)を後にすると、「乙隈(おとぐま)」です。草場川を渡ると「上茶屋」というバス停がありました。多分この近くが干潟地区の茶屋の端だったのでしょう。次のバス停が「干潟(ひかた)」で、ここ一帯が干潟の中心。ふたつ先には「里木」というバス停で、いうまでもなくてこの付近に干潟の一里塚跡があったんだろうなと思っていると、ちょっと先の民家の隅に「一里塚跡」の案内板が建てられていました。この付近には植木屋さんが多いようで、植木の苗や木樹を栽培する畑が広がっています。

県道132号線に合流して100m弱で右折し、県道53号線を離れました。立石小学校と中学校の間を抜け、大分自動車道をくぐると、右側に霊鷲禅寺の参道入り口に建つ「下馬石」が見えてきました。この寺は有馬豊範が松崎宿を整備した時、西牟田にあった寺を移したものだそうですが、「往年参勤交代のためこの地を通過した九州諸大名や旗本等は、皆ことごとく駕籠を降り馬を下り槍を伏せ拝跪(はいき)して通過したと云う」といった伝承があるほど大名や旗本たちが相当な礼を霊鷲寺に対して払っていたそうです。

ここから甘木鉄道の線路までの間の道幅はかなり狭いのですが、これが往時の道幅だったそうです。甘木鉄道の線路を横切り、国道500号線を横断して右折すれば、すぐに松崎宿の入口(北構口)です。
霊鷲禅寺

松崎宿
松崎には、わずか17年間でしたが久留米藩の支藩・松崎藩があり、松崎はその城下町でした。時の藩主は松崎を宿場町として発展させるために、山家から久留米(府中)までの松崎往還を作らせました。この道ができたために従来の横隈街道(筑前街道)は廃止され、松崎往還が天下道(参勤道)に指定されたそうです。そして、明治の宿駅廃止まで、島津(薩摩)、細川(肥後)、相良(人吉)、立花(柳川)、有馬(久留米)各藩の大名行列に利用されていました。

いまも、北構口、南構口、直角に曲がった枡形道路、そして旅籠建築の「旧松崎旅籠油屋」など、宿場町当時の面影を今に多く残しています。

「構口」は宿場町を構成する建造物の一つで、宿場町の出入り口に石垣を築いて防御のかなめとしたものです。松崎宿では北構口に隣接して久留米番所を設け、人や物資の出入りを見張っていたといいます。

北の枡形の角地に建つ「三原本家」の土蔵や離れ座敷の洋館は現在「松崎宿歴史資料館」として利用されていて、旅籠油屋に伝わる道具類のほか、松崎宿の古写真や豊前街道沿いの文化財を紹介しているらしいのですが、見学には事前連絡が必要なようで、ちょっと覘いていこうかな〜とはいきませんでした、残念!。
松崎宿の北構口
北構口、三原家北枡形(道路)を抜け、上町の恵比寿さんを見て左折すると、松崎宿のメインストリートです(松崎宿の散策するにあたっては「松崎宿の文化財マップ」(おごおり探検隊)を参考にさせてもらいました )。

松崎宿のメインストリート?に出ると、小郡市の文化財に指定されている旅籠油屋(非常に大きな旅籠で、松崎宿の中でも大名を泊める本陣・脇本陣に次ぐ扱いを受けていたそうで、見学には事前連絡が必要だそうです。2011年3月現在は、痛んでいる個所の調査と応急修理が行われていました)がど〜んと目に飛び込んできました。慶応年間の記録では、松崎宿の旅籠は本陣、脇本陣を含めて26軒もあったそうで、大変な繁栄ぶりだったようですね。

旅籠油屋をすぎると道の右側に御茶屋が見えてきました。御茶屋は藩主が休泊に使用する施設で、参勤交代で江戸と国元を行き交う大名も利用しました。松崎宿では「茶屋守り」をおいて共同で運営され、明治維新後は学校として利用されていたそうです。

理容室の角を曲がって松崎城跡へ向かいました。右側には御茶屋の門があり、その中には大きな銀杏の樹が茂っていました。中町の恵比寿さんの入口には、「松崎宿場本陣跡」の石碑があります。道の両側には桜並木が続き、奥の左側に三井高校が、右側に倉稲魂神社(うがのみたまじんじゃ)がありました。
御茶屋跡
松崎宿の御茶屋跡から松崎城の跡に建てられた三井高校までの桜並木が「桜馬場」で松崎城にいたる大手筋だそうです。桜が満開となる時期には桜祭りも開催されているそうです。

三井高校の手前左側の桜の樹の下に「松崎城跡」の石碑が建っていて、道路の向かい側には「松崎城跡」の案内板が設置されていました。それによると松崎城は寛文11年(1671年)に築城されましたが、わずか14年後には破壊され、城跡には松が植えられたそうです。三井高校が建っている場所には「本丸」、その奥に「二の丸」、そして御茶屋裏には「出丸」があったそうです。

松崎城が14年間の短命であったのにくらべ、松崎城の城下町としてつくられた松崎宿は久留米3宿のひとつとして明治維新まで長く繁栄しました。なんとも皮肉なもんです。

松崎宿のメインストリート?に戻りました。
旅籠一松屋、南桝形、、下町の恵比寿さん旅籠鶴小屋下町2つめの恵比寿さんを過ぎると、松崎宿の南端・南構口です。南構口にも道路の両端に石垣が残っていました。松崎宿は北口、南口とも両側に石垣が残っていますが、道路の拡張工事などにともなって失われるものが多いなかで、非常に貴重なものだそうです。

松崎宿の南構口を抜け、静かな田舎道をふたたび走り始めました。
松崎城跡碑と三井高校

松崎〜府中(久留米)   松崎から府中(久留米)までの走行ルート
下岩田地区の南西端に位置する天満宮のすぐ先の、向かって右側の民家の庭先に建つ下岩田の一里塚跡を通り過ぎ、下岩田の交差点で県道737号線を横切ると、街道は県道737号線の西側に並行して続いています。まもなく古飯(ふるえ)です。

古飯の交差点で県道14号線を横切り、古飯地区を抜けると、まっすぐな道路の先に繋がる平方地区の入口に「平方の郡境石」が見えてきました。「平方の郡境石」は当時の御井郡と御原郡の境界を示すために建てられたものだそうです。御井郡と御原郡の境には、山や川などの自然のものがなかったため人工的に決められ、こうした境石が境界を示すために各所に建てられたそうでが、今なおその姿をとどめているものは少ないようです。以外と小さいです。

平方(ひらかた)から光行(みつゆき)へ向かう道は大きく西へ迂回しますが、田んぼの区画整理事業(平方田圃整理事業竣工碑)によって古い街道が消えてしまったようです。多分、国道322号線の近くまで県道737号線とほぼ並行して走っていたのではないのでしょうか。

国道322号線の近くには「光行茶屋」という地名が残っていますが、光行には旅人が休憩するための茶屋が何軒か軒を連ねていたといわれ、それが光行茶屋という地名として残っているのでしょう。茶屋があることを示す目印として楠の木植えられていたようですが、旅路を急ぐ旅人からは、遠くからでも目に入ってきたことでしょう。でも、その名残を見つけ出すことはできませんでした。
平方の郡境石が見えてきました。カーブミラーの横の小さな石です
光行土居(みつゆきどい)。光行土居は本来、宝満川や大刀洗川などの氾濫(はんらん)に備えた土手(こんな土手?)で、薩摩街道の設置に伴い、街道として利用されたものと考えらています。光行土居には大正ごろまで十数本の榎の大樹があったといいますが、今はそれも無く、桜並木が続く土手が往時をしのばせてくれます。

国道322号線と並行して続く農道を走っていると、国道の土手に大きな楠の樹が見えてきました。これが八丁島一里塚でしょうか?。国道の横には八丁島一里塚の碑が建てられているはずでしたが、見つけ出すことはできませんでした。のんびりとした道を走ってきた後に国道を走るのはとても気を使うので、うっかりと見過ごしたようです。八丁島の一里塚は、久留米札の辻から2里(約8Km)の地点に設けられたものであり、「米政府表」によると「寛永3年(1750年)2月、三井郡往還筋壱里塚建。八丁島村之内。光行一里塚より乙隈村御境石迄の間一里塚出来」とあります。久留米城下札の辻から五郎丸(1里)、光行(八丁島・2里)、下岩田(3里)にそれぞれ一里塚が設置されていました。

国道322号線が大きく西へカーブする地点で国道を離れて太刀洗川沿いを走り、古賀茶屋で西鉄甘木線を横断しました。交通量が一気に増えます。
街道の宿場と宿場の間にあって、駕籠(かご)や馬を止め、人足や旅人が休息するための場所を立場といい、多くの場合ここに茶屋が設けられました。立場茶屋ではお茶やお酒のほか、食事を出す所もあったため、休憩や昼食に大いに利用されました。古賀茶屋(こがんちゃや)も光行茶屋(みつゆきちゃや)と同じように立場茶屋の跡がそのまま地名として残っています。

桜並木が続く土手
太刀洗川を渡り、北の天満宮下宮を右に見て南下すると筑後川河畔に出ました。ここは昔「神代(くましろ)の渡し」があり、神代橋をわたると、神代交差点の角に「神代浮橋之跡」の碑が立っています。神代浮橋は文永11年(1274)、元・高麗の連合軍の襲来に当り、鎌倉幕府の執権北条時宗は薩摩、大隈、日向、肥後など南九州の御家人などに出兵を命じました。当地の神代良忠は、これら軍勢の北上に際し、工夫をこらして九州第一の難所といわれた筑後川神代浮橋(舟橋)の通行の便を計らい、諸軍を速やかに博多に赴かせたといいます。室町末期、江戸時代には「神代船渡し」が見られるようなので、このときだけ浮橋を造ったと思われます。

神代の交差点を右折すると左手に「神代天満宮」が見えきましたが、車に追われて走り抜けてしまいました。ここは別名「身浴びの天満宮」と呼ばれ、菅原道真公が水田の郷より北野へ帰途筑水の辺り、神代天満宮の所在地にて沐浴されたという故事が伝わっています。

国道210号線を桝形?に横切って、県道86号線(久留米筑後線)に入ります。九州自動車道をくぐり、JR久大本線を渡って左折すると、左側に府中(久留米)宿跡の御井小学校があります。また、御井町の商店街は府中宿の中心だったそうです(それにしても、県道86号線は狭いうえに交通量が多く、すごく走りづらい!)。

「ここで一息」
長崎街道・田代宿から追分けて久留米へ至る「くるめ道」(久留米では肥前道と呼ぶようです)は、新宝満川の支流の思案橋川の河口に架かる思案橋、そして築後川の宮ノ陣橋の袂にあった宮地の舟渡しを経由して久留米へ入っていました。新宝満川の支流の思案橋川の河口近くに架かる思案橋の北側の袂・正面「思案橋北側追分石(名前そのままです)」が残っていて、追分石には「左たしろ さが、右おごふり さいふ」と彫られています。なお、思案橋のすぐ東側(向かって右側)には西鉄天神大牟田線の線路、そして県道88号線が並行して走っています。

長崎街道・田代宿から思案橋までの区間はJR田代駅やJR鳥栖駅、そして鳥栖商工団地の開発により、その面影はほとんど消えてしまったようですが、田代が久留米のほぼ真北に位置することから、現在の国道3号線からそれほど離れずに続いていたものと思われます。
「神代浮橋之跡」の碑

府中(久留米)〜羽犬塚
府中宿の本陣は、高良大社への登り口に位置する御井小学校にあり、御井小学校の正門の坂を登りきった右側の椋の木(むくのき)の下には本陣の古井戸の跡があるそうです(校門には「部外者の立ち入りを禁じる」との掲示があるので、立ち入りは遠慮しました)。また、宿場の北構口が「良山中学校入口交差点」付近に、南構口が「矢取交差点」の少し北側寄りにあったようですが、明治43年に解体されて、高良下宮社の祇園社(通称祇園さん)の石垣にそっくり再利用されたそうです。

府中(久留米)宿は、久留米藩内における主要な宿駅の一つですが、久留米城を東へ大きく迂回しています。これは久留米藩内を通過するだけの参勤交代の大名達がわざわざ城下を通らなければならない不便さを解消するためのものでもありますが、城下の内情を他国に知られないためのものでもあったと考えられています。

県道86号線に戻り、羽犬塚宿を目指して走ります。
府中宿本陣があった御井小学校

羽犬塚〜瀬高〜南関
国道209号線に入り「一条」を抜けた筑後市街が羽犬塚宿の跡です。羽犬塚は古くから宿町と云われ、旅人の宿泊・休憩・乗継が行われた場所です。国道209号線の免許試験場交差点付近が北構口で、宗岳寺と六所宮の間に本陣(お茶屋)や問屋が道をはさんで軒を並べていたそうです。山ノ井川の手前を右折して法務局の角を左折し、山ノ井川を渡ったすぐのところに南構口がありました。
花宗川を渡ってニ本松交差点を過ぎると、左側に「郡境石」が残っています。その先は「船小屋温泉郷」、のんびりと温泉につかるのも良いものです。

矢部川は昔は橋も無く、船渡しもできなくて、徒歩による「歩渡」で浅瀬を渡るしか方法が無く、旅人は難儀したそうです。
矢部川を渡ると楠の木が繁る「中の島公園」が道の両脇に広がります。楠の木は大水による堤防の決壊を防ぐため江戸時代に植えられたそうですが、今はゆっくりと休憩できる木陰を提供してくれています。

長田を抜けて東山農協の先の出光GSから左へ折れた細い道(県道774号線)が、清水寺の前を抜けて南関へと向かうルートです。国道209号線をそのまま直進すると海沿いルートになります。
左手に清水寺を見て更に進み、山川町役場前で国道443号線に合流します。山川町役場前には旧跡・遺跡の案内板が建てられていますので参考にして下さい。山川町には「平家の塔」や「太閤道」等、田舎の町とは思えない旧跡・遺跡が残っています。

九州自動車道をくぐると「北の関」バス停がありますが、ここは筑後と肥後の国境の筑後側の関所「北の関所」があったところです。 「北関バス停」の少し先の道路際に案内板があり、九州自動車道沿いに更に10分程歩いた山間に、幕府直轄であった「松風の関」碑がありますが、山間の道は雑草が伸び旧跡も忘れ去られてしまった様子です。 豊前街道は九州自動車道を渡り(正しくは豊前街道跡を九州自動車道が横切った)、自動車道の西側を並行して南関へと進みます。
境界石

南関〜山鹿〜植木
松風の関から山鹿の手前まで、豊前街道と国道443号線が重なるのはほんの一部で、全体的に国道443号線の西南側を通っていました(南関から山鹿までの豊前街道は肥猪町(南関町)、平野(三加和町)、鍋田(山鹿市)を経由していました)。 このルートも西南戦争の戦場となったところで、いたるところに西南戦争の遺跡があります。

国道443号線を進んだ肥後(熊本)側の関所「南の関」が南関です。南関には町役場を中心として「御茶屋跡」や「西南の役」時に本陣となった「正勝寺」等の宿場跡があります。 「御茶屋跡」は町役場の裏にありますが、今はもう廃屋に近く忘れられてしまった様子です。また、南関は「北原白秋」が生まれた町でもあります。
国鉄バス・南関バスセンター前には南関町の旧跡・遺跡に関する案内板が建てられていますので、宿場跡巡りの参考になると思います。

三加和町を抜けると、温泉と灯篭祭りで有名な山鹿市に到着します。山鹿市街手前の鍋田には岩野川沿いに「鍋田横穴古墳」がありますが、 「岩野川」の本流である「菊地川」沿いにも「トンカラリン」等の有名な古墳群があります。興味のある方は時間を作って訪ねてみてはいかがでしょうか!。国道3号線を横切って山鹿市街の入口・上町へと進みます。
南関の正勝寺

山鹿は温泉の町で、気軽に入れる温泉がいくつもあります。市街の中心にある「温泉センタープラザ」内にも温泉があり、入浴することもできます。すぐ手前にはトイレの完備された公園もあり、休憩/食事/トイレの好ポイントです。 山鹿郵便局の先から入った「大宮神社」には、毎年8月16日に行われる「灯篭祭り」で奉納された灯篭が展示されています。すべて紙で作った伝統ある芸術品です。非常に珍しいものなので、できれば訪ねてみてください。お土産には灯篭をかたどった「灯篭最中」や「馬刺し」がお勧めです。

国道3号線に戻り「菊地川」を渡って「熊本市」を目指しますが、山鹿から植木の間、豊前街道は国道3号線の西側を通っていました(郷原(鹿央町)、元広(鹿央町)を経由していました)。植木から熊本の間は豊前街道と国道3号線はほぼ重なっています。

植木町役場前の交差点を直進し(右方向はバイパスです)植木町市街へと進みます。植木郵便局の先から右折すると西南戦争で有名な「田原坂」方面へと向います。少し遠回りになりますが、つつじの季節は丘が花で埋め尽くされます。
上町野に飾られた山鹿灯篭

植木〜熊本
「大窪2丁目交差点」を右斜め方向へ進み池田町、京町を経て熊本市街へと進みます(「大窪2丁目交差点」を左斜め方向へ下ると熊本バイパスに入ってしまします。注意して下さい)。 大窪周辺と徳王から出町にかけては凹道(切通し)となっていますが、これは加藤清正が台地上を移動する味方の軍勢を遮蔽するために構築したと言われています。また、「京町二丁目交差点」は鍵型道を斜めに切って交通の便を良くしたもので、 いろいろなとこに合戦を意識して熊本の城下町が造られています。

京町一丁目の「教育会館前交差点」を右折して熊本城の新堀門(新堀橋)へと進みます。なお、左折すると観音坂を下って豊後街道(大津街道)となります。熊本博物館の前を通り藤崎台球場の北側から西側へと抜け、藤崎台童園から電車道に下ります。 熊本YMCAの東に清爽園という公園がありますが、江戸時代はこの付近に新1丁目御門があり、ここが江戸時代の肥後国の道路の起点(道路元標)になったところです。御門の前には広場が設けてあり、平時(合戦時は軍隊の集合場所)は高札場として利用されていたそうです。 清爽園には道路元標跡を示す碑が建てられています。熊本城は日本3大名城に数えられるお城です、是非見学していってください。「熊本ラーメン」も、うったまがるごつうまかばい!。

松風の関(「松風の関」の案内板より)
古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ唯一の街道が通り、その中で「背戸坂」と呼ばれた最も峻険であり要害の地でありました。
平家物語に「寿永2年・・・・菊池次郎高直は都より平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にひっこもり、・・・・。」とあり、 ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。

寿永2年(1183年)、当時既に関所として菊地氏によって守られていたこと、7世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うこと等が解ってきています。 真弓廣有公が松風の関に布陣したのは正平14年(1359)頃でないかと思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。

その後、戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、戦国時代の終わりに田中吉政が、筑後国・32.5万石の領主として柳河城に入ると、 慶長6年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っています。
松風の関跡

参考文献
この道中案内記を作成するにあたり、参考にした文献/ホームページは以下のとおりです。もっと詳しく知りたい方はこれらの本を参照してください。 薩摩街道は参考文献が少なくて苦労しました!。

・熊本県歴史の道調査−豊前街道−(昭和58年、熊本県文化財保護協会)
・熊本の街道と峠−熊本の風土とこころ第二集−S(岩本政教編著、熊本日日新聞情報文化センター)
・九州の道、いまむかし(葦書房)
・筑前の街道(近藤典ニ著,西日本選書)
・福岡県文化百選.道編(西日本新聞社)
・おごおり探検隊 まつざき宿よもやま話(ホームページ)
・御井町誌 第二章 府中・街道とその周辺(ホームページ)

平成12年6月に熊本県立図書館に行き、「熊本県歴史の道調査−薩摩街道−(昭和58年、熊本県文化財保護協会)」のコピーを入手しました。
この資料をベースに検証し、熊本市以南をレポートするつもりです。ご期待ください。
でもこの資料も鹿児島県境までしか記録されていないので、鹿児島県内は別途調査する必要があります。

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